鈴木 啓太『引退後の自分の姿をイメージし、それに必要なアクションを1日1時間でいいから生活の中に取り入れて勉強しておくことは必要だと感じています。』

鈴木 啓太
1981年生まれ。静岡県出身。幼稚園時代にサッカーをはじめる。
小学生時代清水FCに所属、1993年の全日本少年サッカー大会では準優勝。
中学は東海大一中で全国中学校大会の中心選手として全国優勝。
高校は東海大一高(東海大翔洋高校)へ入学。静岡選抜として国体準優勝。
2000年浦和レッズに入団。2015年シーズンで引退。


これまでのキャリア

●幼稚園年少からサッカーをはじめ小学校では清水FCへ入団
●東海大第一中学に入学。全国中学校大会で優勝
●東海大第一高校に入学。静岡選抜として国体で準優勝
●2000年浦和レッズに入団。2006年J1優勝。2005年2006年と天皇杯連覇。
 2007年AFCチャンピオンズリーグ優勝。クラブワールドカップ3位
●2001年 U-23日本代表に選出
●2006年から2年連続でJリーグベストイレブン 日本A代表に選出
●2007年全国のサッカー担当記者の投票により選出される日本年間最優秀選手賞輝く
●2006年~3年間で日本代表国際Aマッチに 28試合出場
●2015年引退。AuB株式会社を起業 代表取締役社長に就任
●2016年 Jリーグ功労選手賞を受賞。2017年引退試合を開催


■地元が清水ということもあり玄関から外に出ると子供たちがサッカーをやっていた

静岡県清水市。とにかくサッカーが盛んな街で育った鈴木さん。
サッカーを始めたきっかけは意外だった。実は性格的に引っ込み思案で当初は積極的にサッカーをしている仲間に入ろうとしなかった。しかしテレビで見ていたキャプテン翼とマラドーナが全盛期の時だったということもありサッカーに興味を持ち始めた。
そして、幼稚園年中で清水第八サッカークラブに入りサッカーをはじめた。でも決して早い方ではなかった。既に周りの友達はほとんどサッカーをやっていた。実はサッカーの他にも機械体操もはじめた。
体を動かすことが好きなので小学校1年から3年まで水泳もはじめた。
学校では放課後のバスケットボールや、休みの日には父親とマラソン大会に出たりもした。


■小学生になって清水市の選抜チームのセレクションをうける

小学生のチームではあるが、3年生になると清水市の選抜チーム清水FCのセレクションを受け見事合格。約60人が最初選ばれ、毎学年セレクションで最終学年では30人前後に絞られる大変厳しいチームではあったが、最終学年ではMFとして活躍しレギュラーポジションを獲得。ただ全国優勝が絶対のチームだったが六年生で準優勝という結果に終わってしまい、清水FCとしては不本意な結果に終わった。
中学校は東海大一中(現在の東海大学付属静岡翔洋中学校)に進む。一学年100名のうち3分の1がサッカー部というサッカーのために進学する学生が多い学校であった。
そこで見事全国優勝の立役者として一躍脚光を浴びることになる。
高校は東海大第一高へ。
「夢を実現するためにずっと歯を食いしばって頑張ってきた。高校時代は毎朝6時起きだったけど楽しかった」と鈴木さん。1年生からレギュラーで活躍。決勝で藤枝東に負け全国大会への出場は叶わなかった。高校時代は順風満帆でもなかった。折れそうなことも多々あった。でもこの時点で鈴木さんは10年後の自分を描き始めていた。日本代表になって活躍すること。
高校時代の最高成績は静岡国体選抜の一員として全国大会で準優勝が最高成績。ただ鈴木さんのように努力を続けた選手には、強運が必ずついてくる。
3年の春に日本選抜vs静岡選抜の試合で運よく浦和レッズのスカウトの目にとまる。実際スカウトは別の選手を見に来ていた。でもその試合では100%以上のパフォーマンスを発揮する。
結果、大学への進学という道もあったが3年の9月に浦和レッズの強化部から正式にオファーを受け入団。プロの道へと進む。


■セカンドキャリアはプロになった時点で考えていた

三浦知良さんや中田英寿さんのようなスタープレーヤーになりたいという反面、鈴木さんは現実なこともしっかりと視野にいれていた。スタープレーヤーになったとしても30歳までプロサッカー選手としてやれれば大成功だという現実。鈴木さん自身、21歳から選手会に所属して副会長をやっていたこともありセカンドキャリアを意識していたという。引退後の自分を考えることができる環境ではあったが、しっかりとそこまで考えているのは一流の証。
トッププレーヤーになり絶対プロで成功してやるという思いと、30歳で引退しその後のことを考えながら現役時代は過ごしていた。
2000年シーズンからプロ入り。1年目はリーグ戦での出場機会はなかったものの、天皇杯でプロデビューを果たす。そして見事ゴールを決めた。
翌年8月頃からレギュラーでフル出場。攻守を支えるボランチとして大活躍。
2006年のJリーグ優勝、07年のAFCチャンピオンズリーグ制覇などのタイトル獲得に貢献。浦和レッズでは27歳でキャプテンに抜擢。3年連続キャプテンを務め、浦和レッズの一時代を築いた。
そして日本代表では国際Aマッチ通算28試合に出場。イビチャ・オシム監督が指揮を執った期間、唯一全試合にスタメンで出場。オシム監督は、誰よりもピッチを走り回る鈴木を、「水を運ぶ選手」として全試合に招集した。


■まさかの不整脈の発覚そして引退

2014年11月突然の出来事が。試合途中に突然の体調不良に陥り、ピッチを後にした。急遽ドクターの診断を仰ぐと、不整脈が発覚、納得いくプレーができなくなり引退という文字がちらつきはじめた。
2015年には出場試合数も4試合に終わり、浦和レッズ退団を決意する。
当然他チームから多くのオファーがあったものの16年間すべてを浦和レッズとして全うしたい考えが上回った。そしてスパイクを脱いだ。


■人生そのものがキャリア

引退後のことを以前からずっと考えていたので起業はすんなりできた。
セカンドキャリアという考え方ではなく人生そのものがキャリアという考え方をしていた。鈴木さんが引退したのは34歳。当時サッカー選手は26歳前後でキャリアを終える人が多く、その中では16年間プレーできた。チーム加入当初から常に次のことを考えていたので、現役時代から常にいろんな人に会ってアンテナをはっていた。そしてこれまでのアスリート経験を活かしながら誰もやっていない領域にチャレンジすることになる。


■アスリート時代から興味関心が高かった腸内環境

幼いころから調理師である母親に『腸の状態がもっとも大切』『便を見なさい』と言われて育った。なので常に腸の環境を整える食事を自然ととっていたという。こんなエピソードもあったと。
2004年3月に行われたアテネ五輪アジア最終予選のUAE戦で、代表選手の約8割にあたる18人が下痢の症状を訴えて試合直前までトイレにこもる事態を目の当たりにした。そういった経験を通して『腸の環境を“見える化”できれば、アスリートのコンディションアップにつながるのでは』と鈴木さんは感じた。
しかし当時はまだ起業という意識はなかったもののもっと勉強をしてから、面白いことが出来るのではないかという意識はあった。
偶然にも友人のトレーナーに「うんちアプリ」を開発している人を紹介してもらう。対面した時に「アスリートの腸内環境を調べたら面白くないですか」となり翌日に会社設立の手続きをしたという。まだ現役時代でもあったがすぐに動くのが鈴木さんの信条であった。
AuB〈オーブ〉株式会社の誕生である。


■常に10年先のことは考えて行動する

もちろんAuBでも壮大なビジョンをかかげて更に大きな活動をしている。
健康に大きな影響を及ぼすといわれる腸の中の細菌の群集「腸内フローラ」の解析を進めており、アスリートのパフォーマンスを向上させることを目的にしている。どこも手を付けていない領域だ。そして長い意味で、サッカー界への貢献を目指すと共に、比較的引退の早いサッカー選手たちにとって、セカンドキャリアの受け皿となる可能性も秘めているという。素晴らしい。
しかし人生をこれで終わることは考えていないという。またビジネスとして面白そうなことが出来るのであればすぐにでもチャレンジしたいと鈴木さん。
鈴木さんは幼少期から人知れずがんばってきたアスリートは違うという。
「トップアスリートは幼少期から基本的な考え方やスキルを突き詰め、足元を固めてきている。そんなトップアスリートであれば、引退後のキャリアをどこに設定しようと、しっかりと考えていれば可能性はある。ただし勉強は必要。
アスリートは会社員に比べ時間的にも余裕はあるはず。例えば通信制の大学に通う、強力な武器になる国家資格の参考書を読むなり、日々新聞を読む、外国語を毎日5つ覚える……。なんでもいいですが、引退後の自分の姿をイメージし、それに必要なアクションを1日1時間でいいから生活の中に取り入れて勉強しておくことは必要だと思います。」と鈴木さん
『スポーツ以外は何もできない』と自分を卑下することなんてまったくない。アスリートの引退後のキャリア、そして今のビジネスを通してスポーツ界に貢献していきたいと鈴木さん。
人生のキャリアを考えているからこその発言だ。

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