伊藤 護『ポジティブな言葉を優先し、常に好奇心を持ち続ける大切さを伝えた』

 

伊藤 護
1975年生まれ。秋田県男鹿市出身。小学3年生からラグビーをはじめる。中学では東日本大会で3位。高校は名門の秋田工業高等学校に進学。3年時に花園全国大会ベスト16。大学は推薦で専修大学に。そして卒業後東芝に進みラグビー部で活躍。2008年に引退後、2011年まで社業に専念。2011年から國學院大學ラグビー監督に就任。現在に至る。


これまでのキャリア

●1992年 秋田工業高等学校1年時に花園全国大会に出場
●1994年 3年時の花園全国大会ではベスト16
●1994年 専修大学に入学。4年時には主将に
●1998年 東芝入社。ラグビー部に所属 日本選手権優勝
●1999年 東日本社会人リーグ優勝
●2000年 日本代表に選出、キャップは16
●2004年 日本選手権優勝
●2005年 トップリーグ優勝 マイクロソフトカップ優勝 トップリーグベストフィフティーン
●2006年 トップリーグ優勝 マイクロソフトカップ優勝 日本選手権優勝
●2007年 トップリーグ1位通過 マイクロソフトカップ優勝 日本選手権優勝
●2008年 現役引退、社業に専念
●2011年 國學院大學監督に就任


■秋田県出身でなかったらラグビーに出会えなかった

ラグビーが盛んな秋田県ということもあり、小学生のころからラグビーを親しんだ。秋田県でラグビーを始めた人は先ず秋田工業高等学校に進みたいという目標がある。その目標に向かってラグビーに打ち込んだ。
秋田工業高等学校は花園全国大会出場69回、優勝回数15回、準優勝回数7回の名門校である。
小学生時代はスタンドオフとして活躍。中学は県大会優勝、東日本大会では3位という成績。中学時代にスクラムハーフに転向。
FWとBKを連携させ、戦略を立て、コミュニケーションもとっていく大事なポジションで、そういったポジションが好きになりプライドを持つようになる。
そして高校は、目標であった名門秋田工業高等学校に推薦で入学。
花園全国大会出場は1年時と3年時。1年時はリザーブであったが3年時には9番(スクラムハーフ)を背負って出場。東のAシードでの出場、優勝候補を言われながらベスト16に終わる。しかし秋田工業高等学校での経験は後の人生を左右する素晴らしい3年間であったと伊藤さん。余談になるが、伊藤さんの長男は秋田工業高等学校に進み、現3年生で2022年度花園全国大会に出場する。
その後大学の進学先は色々悩んだが、1年生から活躍したいという想いもあり、1部リーグに所属していた専修大学に進む。もちろん1年生から9番を背負い4年間活躍。4年時には主将も務めたが大学生活では優勝を達成することができなかった。
秋田県愛が強いこともあり卒業後は秋田に戻るという事も考えたが、当時ラグビー選手権で2連覇中の東芝に声をかけて頂いた。

 


■人生を左右した東芝への入社

当時国内最強だった東芝府中ラグビー部。1年目は日本選手権3連覇を達成した年でもあった。ただ出場機会にあまり恵まれなくリザーブが続いた。当時同じポジションに日本代表の村田亙さんがいた。村田さんを超えたいという最高の目標を立て頑張った結果、3年目に9番を譲り受けスターターとなった。
そして活躍が認められ2000年の新生平尾誠二ジャパンで日本代表初選出。
そしてデビュー戦でいきなりトライという偉業を成し遂げる。
日本代表キャップは16。
ジャパントップリーグでは2004年度から2006年度まで3連覇を達成。2005年度はマイクロソフトカップ、日本選手権でも優勝し三冠を達成した。
2009年度までに5回のリーグ優勝を数え、カップ戦(2004年度、2005年度)や日本選手権(2005年度、2006年度)でも連覇を達成するなど、トップリーグの草創期に君臨した。そして2005年のスクラムハーフとしてベストフィフティーンに選ばれる。
このころは全盛期で正直なところセカンドキャリアを考える余裕もなかったと伊藤さん。しかしその後は、年齢と共に出場機会が減り、リザーブになった時に少しずつセカンドキャリアを考え始めた。

 


 ■セカンドキャリアはラグビー監督を目指すことに

後輩が育ってきて、プライドをもっていた9番を譲り始めた時期、そして肩を脱臼したことで引退を考えるようになる。
トップリーグがスタートしてラグビー人気が沸騰して、会場はいつも満席になっていた。そんな中で東芝という看板を背負ってラグビー。
戦っているうちに東芝という会社に誇りを持ち、社員として社業に専念するということを決める。引退後は自ら手を挙げ広報部に所属。液晶テレビ「REGZA」のCM制作を手がけた。とても忙しかったが、仕事のやりがいや楽しさを知った時期だった。
その後、3年間社業に専念していたが、國學院大學ラグビー部の監督のオファーが届いた。
すごく迷った。しかし家族との相談の結果、大好きなラグビーの仕事、それも監督という誘いに最初の3年間は東芝に籍を置きながら國學院大學の監督にチャレンジ。
もともと社業に専念するために東芝という企業を選んだが、結果ラグビー愛を捨てきれずこの話が来た時にラグビーを教えたい、ラグビーへの感謝と恩返しの気持ちが大きくなったと伊藤さん。
色々なチームを渡ってコーチ業を学ぶという選択もあったが、大学の職員としてひとつのチームの監督として新たなチャレンジをしたいと決断する。
そして3年後2014年には、國學院大學の職員として正式にオファーを受けることに。

 

 


■國學院大學を1部にあげて伝統校にしたい

高校ラグビーでは「國學院」ブランドは強い。栃木や久我山は花園の常連校である。ただ大学は2部リーグでいわゆる強豪校に入らない。高校の有望な選手は1部リーグの大学を選んでしまう。それを理解したうえで國學院大學監督へのオファーを了承した。
伊藤さんは「1部昇格」という明確な目標をたてつつ、毎年スローガンを掲げる。就任した年から毎年、掲げているスローガンから、チームとしての思いや、物語を感じてもらいたい。結束という意味を込めた「One」(1つ)から始まり、翌年は個の強化を目指した「Oneself」(自分自身)、徐々にプレーでの目標が描けるようになってきて、「Fighting Spirit」(闘争心)、さらにその上の闘争心を目指そうということで「Break Through」(突破、躍進)という風に。
年々、クリアしてきたことを基に、チームのカルチャーのひとつとしてさらにステップアップさせるスローガンを立てている。
監督就任早々からラグビーの楽しさを一つ一つ細かく伝える作業を始めた。電話一本で伝えるのは簡単だが、やはり気持ちは伝わらない。部員一人一人の顔を見ながら丁寧にコミュニケーションをとった。体育会のイメージである「やれ!」「気合で乗り切れ!」「俺についてこい!」というタイプではない伊藤さんは言う。どちらかというと、「みんなと一緒に強くしていこう」というタイプだと。
そしてグラウンドでは「大人と大人の関係性を築く」ことを基本にコミュニケーションをとった。 

 


■生涯國學院大學の監督として全うしたい

國學院大學の監督として徐々に選手層も厚みを増してきている。
伊藤さんは全国を回ってスカウト活動も欠かせない。
國學院久我山、國學院栃木の強豪高校から國學院大學でラグビーをしたいという評価や環境をつくらなければ、1部伝統校への道が見えない。
そのためにもっともっと強いチーム作りが必要。
國學院大學でラグビーをしてよかった。楽しかったと言う声は徐々に出てきている。強豪高校からの推薦で入ってくる子も多くなってきた。卒業して社会人でラグビーを続ける子も出てきた。
ここ10年で間違いなく変わってきている。
またこれから社会に出て行く学生たちに「生きる力」をラグビーというスポーツを通して養ってあげたいという思いがあると言う。
楽しくラグビーをやるということだけなく「自立」「自主性」「規律」をしっかりと身に着けてもらうために何度もこれは言い続けている。これから社会で一人前の人間として評価されるために最低限必要なことだから。「学生たちには立派な大人になって、胸を張って ”國學院大學ラグビー部” の看板を背負って社会に出て行ってほしいですから」と話す。

 

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