競技との出会い
1974年生まれ。小学校4年生の秋に友人に誘われ地元のソフトボールチームに入団。小学校5年生時にオール京都に選出される。
これまでのキャリア
●1999年 日本代表チーム選出、ジャパンカップ国際女子ソフトボール大会出場 MVP受賞
□□□□□ハーレムウィークカップ出場 MVP受賞
□□□□□カナダカップ出場
●2000年 シドニーオリンピック出場 銀メダル獲得
□□□□□日本ソフトボールリーグ1部優勝
●2005年 選手引退、コーチ就任
●2008年 北京オリンピックコーチとして帯同 金メダル獲得
●2011年 京都市立勧修中学校に教員として赴任
■高校卒業時
高校2年生時に国体選手に選ばれるも3年生時は怪我の影響もあり活躍出来なかった。高校卒業後の進路は、ソフトボールが大好きだったので大学進学は考えず、働きながらソフトボールができる企業チームに進みたいと考えていた。複数の企業チームのセレクションを受けた中で、横浜の日立ソフトウェア女子ソフトボール部のセレクションに合格した。当時はまだソフトボールがオリンピック種目ではなかったため、オリンピック出場を目標にすることはできなかった。選手時代のプレースタイルは、小柄な体格だったのでヒットを量産するよりも、とにかく塁に出て走ってチームに得点をもたらすことと、守備範囲の広い選手になれるよう日々努力していた。選手時代に一番影響を受けた人物は、当時のアメリカ代表チームのドット・リチャードソン選手。競技に取り組む姿勢や情熱に大きな影響を受けた。
■現役時代
日立ソフトウェアでは、平日の午前中は仕事をして午後は練習という日々を過ごしていた。ソフトボールが大好きで企業チームでのプレーを選択し入社したが、入社後の4年間は中々試合に出場することが出来なかった。5年目になる頃から試合に出場するようになり、少しずつ自信も付き始め日本代表を目指すようになっていった。入社して9年が経った26歳の時に全日本チームのセレクションを受け、当時の日本代表チームの宇津木監督に認められ念願の日本代表入りを果たす。2000年シドニーオリンピックではレギュラーの選手として出場し見事銀メダルを獲得した。その後、2005年まで現役選手として活躍し、選手引退後は所属する日立ソフトウェアのコーチを続けながら、2008年の北京オリンピックでは日本代表チームのコーチとして帯同し金メダルを獲得した。その頃はまだセカンドキャリアについては全く考えていなかった。
■競技から離れて会社も退職
2008年の北京オリンピック終了後にソフトボールチームを退団し仕事に専念したが、1年後に退職。退職後はオリンピアンという肩書きもありいくつかの講演会の仕事を受けていた。自身の経験を人の前で話すことで改めてソフトボールが大好きなことと、競技の楽しさを伝える側になりたいと考えるようになった。
■教員としてセカンドキャリアのスタート
ボランティアでクラブチームのコーチをやっていた頃、京都府の教育委員会から非常勤講師の話をもらい、「教師塾」に通い勉強し、翌年2校の小学校の非常勤講師として働くことになった。その後、ソフトボール協会から「京都府の特別制度で教師になる試験が受けられる」という連絡をもらい、2011年に京都市教育委員会の採用試験(保健体育科特別選考)を受験。見事合格した。それまでは教員になりたいと思ったことはなかったが、大好きなソフトボールの楽しさも子供たちに伝えることができると思うととてもワクワクしたことを覚えている。
■子供たちとソフトボールに向き合う日々
女子のソフトボールは中学校から始める子供たちが多く、教員として、また部活動の指導者としてソフトボールを一から教えることを今でもとても光栄に思っている。競技の楽しさを伝えることができる立場となって13年、教員としての業務も年々広がり時には大変なこともあるが、毎日子供たちと充実した日々を過ごすことができている。
一人の中学校教員として、一人の元スポーツアスリートとして、これからも沢山の子供たちに競技の楽しさを伝えていきたいと思っている。