山崎 輝恵『どんな道でも自分次第で切り開ける 何一つ、無駄な経験はない』

山崎 輝恵
1986年生まれ。 埼玉県出身。9 歳から始めたバレーボール。 小学生で日本一、中学生でも全国大会出場。 高校では東京の淑徳学園で春高バレーに出場。 高校卒業後 NEC レッドロケッツに入団、4 年の選手生活を経て引退。 引退後、会社に残るも 1 年で退社。 その後は整体師を目指して勉強し、2018 年に独立。 「Corona 鍼灸サロン」を設立。 著名人や海外からの顧客をもつサロンに発展。


これまでのキャリア

●小学生の時に埼玉県大井クッキーズのセッターとして全国優勝
●中学生では全国ベスト8
●高校は東京の淑徳学園、春高バレー出場
●卒業後NECに入団
●2004年 Vプレミアリーグ 優勝
●2005年 6位
●2006年 6位
●2007年 5位
●2008年 3位
●2009年 引退


■スポーツはバレーボール一筋です!

小学 3 年生の時に、姉の影響でバレーボールを始める。 ポジションはセッターを任されて小学生では全国でナンバー1になり、中学生のときには 全国べスト8の成績を残した。 それらの実績によって、バレーボール強豪校である東京の淑徳学園に推薦入学。 淑徳学園の監督からはバレーだけではなく「文武両道」と「女性らしさ」の大切さを叩き込 まれ、人生においても素晴らしく大きな影響を受けた。 春高バレーでは良い結果を残せなかったものの、この時代の経験がバレーボールをさらに 好きにさせてくれた。合宿では「自分達で料理を作る」「上級生がトイレ掃除を率先して行う」「何か差し入れをもらったら下級生から」というスタイルで、それらの経験がその後の キャリアに大変良い影響を及ぼしたようだ。 そうして卒業後は 2005 年 NEC レッドロケッツへの入団を果たした。


■相手チームの全日本選手に言われた「やりにくかった」という一言 

それが励みになりました。 NECを選んだのは監督の推薦と、チームを辞めたとしても大手企業で働けるという環境があったためだった。当時のNEC レッドロケッツは、高校で大活躍した超一流選手が毎年多く入団し、日本一を何度も経験しているチームであった。 チームのメンバーは全部で 25 名前後だが、試合に出られるのはその中から 12 名のみ。 実は山崎さん、V プレミアリーグでユニフォームを着ることが出来たのが 4 年目になってから。それまでの 3 年間は、B チームにも入れないこともあった。 結果を出せずに落ち込んで辞めようと思った時期もあったが、そんな中で救いだったのが 「テル(山崎さんのニックネーム)のトスが一番打ちやすいよ」とチームトップの人が言ってくれた言葉だった。そういったチームメイトの支えがあったからこそ諦めずに頑張ることができた。 一度だけ V プレミアリーグにおいて正セッターで試合に出たこともあった。初めて手にした大きな舞台。その時に相手チームにいた全日本選手が「テルがセッターの方がやりにくかった」とこぼしていたと聞いた時、 「今までやってきたことが認められた、と自分の背中を押してくれた。救われた気がした。」 と山崎さんは言う。

2008-2009シーズン当時         写真提供/月刊バレーボール


■突然出された戦力外通告

「さあ、これからだ!」と思い実業団 5 年目を迎えようとした時、監督との個人面談で「社業に戻ってみないか?」と言われた。 ストレートに言われてはいないが、事実上の戦力外通告である。 高いところから叩き落とされたような衝撃と、胸が締め付けられ一瞬息ができなくなった。 今思えば「あと一年お願いします!」と言うこともできたかもしれない、と山崎さんは言う。 他のチームへの移籍も考えられたが、15 年間のバレーボール人生に終止符を打つことを決意し、2009年に引退した。 引退した人間はどうするのか? そもそも実業団に入団するということは、会社員という肩書があるものの普通の会社員として勤務することはなく、終日バレーボールの練習に明け暮れる生活を送る。その実業団から退団すれば、NEC の会社員として勤務することになるわけだ。 引退してからしばらく NEC の事務員を続けたが、小学生時代から身体を動かし続けることが身に付いていた山崎さんにとっては、椅子に座って黙々と働くという日々が苦痛でしかなかった。

1年も経たないうちに「会社員として働くのは私には無理がある」と思い始め、セカンドキャリアを考えるようになり NEC を退社する。 退社後、バレーボールの下積みで学んだことや経験を活かして整体の道のエキスパートになろうと決意する。 Vプレミアリーグに出場するようなチームの殆どには専属のトレーナーがいる。 特にリーグ中であれば遠征で毎週土日に試合があるため、身体のケアは重要になってくる。 NEC レッドロケッツに所属できたのは幸運だった。 著名なトレーナーが所属していたので、身近にいいお手本があったのも目指す要因のひとつとなっていた。 現役時代は先輩プレーヤーにストレッチやマッサージをすることもあったという。 更なる技術は自分で磨くしかない。 整体師は国家資格が必要な訳ではないので、アスリート界の紹介で評判の良い先生を紹介してもらい、2年間技術を徹底的に学んだ。 それからストレッチの専門店に入社し、その会社で高い治療技術を持つ先生に巡り合うこともできて、施術という仕事がさらに楽しくなってきた。技術向上の為にとにかく数をこなす毎日だったが、まったく苦ではなかった。


 ■小顔矯正のおもしろさを知った

そのストレッチ店で働いているときに、小顔業界でかなり有名なサロンの社長からヘッド ハンティングされた。 たまたま施術した方が小顔業界では著名な方で、丁寧な施術と明るいキャラクターでの接客が認められたようだった。 大阪にある小顔サロンであったが、ちょうど東京に 2 店舗目を出すタイミングだったようで、その誘いを受けて入社し、小顔矯正をメインとする専門店で徹底的に美容整体技術を取得した。小顔矯正の施術というのはどういうものなのか。実は顔は一つの骨で出来ているわけではない。23個のパーツ(骨)で出来ており生活習慣の乱れなどで顔がむくんだり微妙に位置がかわったり、バランスが悪くなると人相にも影響するとのこと。年齢が増すごとに微妙に顔がかわってくる。 そういった顔を元に戻しながら、また施術によってバランスよく小さくできるというもの。それまで持っていた整体の技術に顔の技術が加わったことで、全身の悩みに対応できるようになったのはとても感謝しているという。


■ 手に職をつけ独立したかった

小顔サロンに 3 年間勤めた後、多くのご縁にも恵まれて 2018 年に現在の Corona 鍼灸サロンを立ち上げた。 また小顔矯正だけではなく整体は一般的なものとは違う施術を行っている。 身体には悪くなる順番があり、原因をしっかりと見極めて効率よく施術していくのが山崎さんのスタイル。 筋肉や骨格だけではなく、神経にも重点的にアプローチをしているそうだ。
また技術だけではなく
〇手をぬかない
〇お客様に満足していただく
〇笑顔で帰っていただく
そういった気持ちを持って、整体という 1 対1のつながりでいかに喜んでいただけるかを モットーにやってきた。これこそ念願の手に職だと。


■ 「整体師」ではなく「心体師」

身体を整えるのが整体師であるならば、私は「心体師」でありたいという山崎さん。 「ここに来れば、心も体も軽くなる。また明日から頑張ろう!と思える」 そんな場所を作りたいと思い、今のサロンを作った。現役時代にたくさんの仲間やファンの方々に背中を押してもらったように、次は私が一人でも多くの方に勇気や元気を与えられる人間になりたいという。


■また会いたいと思ってもらえる人になる

「人はひとりで生きていけない」と山崎さんは言う。「怪我で現役から退く選手、燃え尽きるほどやり切った選手、思いがけない戦力外通告… いろいろなきっかけでセカンドキャリアを考える方がいると思いますが、何かをすることは必ず誰かの役に立っていて希望になっているということに気付いてほしいです。 そして”また会いたいと思ってもらう人になる”ことこそが皆が幸せになる方法で、それによってビジネスでは売り上げにつながったり、プライベートではたくさんの仲間ができたりするのではないかと思います。これこそがセカンドキャリアを考えるスポーツ選手に伝えたいことです。」 山崎さんはこれからも更に成長し続けていきたいと思っている。

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