早川寛『大手企業を2年で辞め、プロサッカー選手になるも1年で戦力外通告。 紆余曲折後、元の企業に再入社。 サッカーに関わったことでさらなる新しい道へ。』

早川 寛
1975年生まれ。東京都出身。早稲田実業高校時代は東京都の大会でベスト4。早稲田大学進学後サッカー部で活動し、卒業後はJCBに入社。2年目の秋に、横浜FCのトライアウトを受け、合格。JCBを辞め入団するも、大怪我をするなどして1年目に戦力外通告。プロは引退し、社会人のクラブチームでサッカーを続けながら、ベンチャー企業に就職。JCBの中途採用に応募し、3年ぶりに再入社。20年勤めあげ2021年12月末で退職。現在は有志と立ち上げた一般社団法人グローバルブリッジプラスにて活動中。


これまでのキャリア

●早稲田実業高校3年生のとき、東京都の選抜高校サッカー選手権でベスト4。
●早稲田大学に進学し、ア式蹴球部(サッカー部)に入部。
●大学1年6月、単身渡英し、4部リーグのサッカークラブで1週間練習に参加。
●大学4年4月、プロ入りを希望しつつも、叶わないときのため就職活動。
●JCBに内定。プロからオファーが来ず、卒業後は同社に就職。
●1年9か月後に、横浜FCのトライアウトを受け、合格。JCB退職。
●横浜FCで1年プレーした後、契約更新ならず引退。
●ベンチャー企業に入社し、インターネットのクリック保証型広告を営業。
●その営業経験を生かして、JCBの中途採用募集を受け、再入社。
●20年勤務しながら、サッカーにも仕事として関わるように。
●2021年12月末JCBを退職。夏に有志と立ち上げていた一般社団法人グローバルブリッジプラスでの活動をメインに。


■エリート同期に危機感 単身渡英し現地のサッカー文化を体感

高校時代は全国大会に出場したことがなく、東京都の大会でベスト4が最高成績だったという早川寛さん。早稲田実業高校からそのまま早稲田大学に進み、サッカーも続けようと思っていたが、同ポジションのU19の代表選手が、同期として入部すると聞き、「4年間辛酸をなめることになるな」と暗澹たる気持ちになった。高校生だった早川さんは、そこで、突拍子もないことを思いつく。「それなら大学に進まず、いっそイギリスのプレミアリーグの下位リーグでプレーをしてみたらおもしろいのではないか」。ちょうどイギリスサッカーの4部リーグまでの連絡先が載っているパンフレットを眺めていて、ひらめいた。「4部ぐらいなら自分も入れるのではないか」。若さゆえの勢いで多少盛った内容の自己PRシートを作成し、友達に英訳させて30チームぐらいにFAXで送りつけた。もちろん返信はない。予定通りに大学に進んでサッカー部に入り、同ポジションの強い同期の後塵を拝していたある日、突然国際郵便が届いた。イギリス・マンチェスターの北にある、当時イングランド4部リーグのチームから「ぜひプレーを見せてくれ」と言ってきたのだ。
「一瞬舞い上がりましたが、6、7月は大学リーグの真っただ中で、1年生はチームの仕事がたくさんあって行けるわけがない。でもチャンスを逃したくない一心で、監督に”ロンドンに赴任中の父親が倒れた”と嘘をついて単身で渡英してしまいました」。現地を訪れて驚いたのは、イギリスでは4部リーグのチームにも専用スタジアムがあり、天然芝のグランドも4面もあったこと。「けっこうな年配の選手もいて、本業は弁護士だとかパン屋とか。1週間いっしょに練習して、19歳の自分もそれなりに手応えも感じましたが、とはいえ、当時はまだ海外で活躍して日本からオファーされるようなモデルもおらず、まずは大学でしっかりプレーしてプロになろうと思い、帰国しました」
無謀な行動ではあったが、現地でしか知り得ない情報を得、4部リーグでも皆、一生懸命プレーしている姿が強く印象に残った。それがのちに働きながら一般のクラブチームでサッカーをする選択にもつながったという。帰国後、同期のエリート選手はJリーグに引き抜かれ、早川さんが試合に出る機会も一気に増えた。一つの行動が人生を動かし始めていた。

 


プロを諦めるも、社会人チームで人生を変える出会い

大学卒業後は、プロリーグに進みたいと早川さんは考えていた。当時は4年の秋季リーグが声のかかる最終機会。つまりその時点で声がかからなければ行き場がなくなる。「とりあえず内定をもらっておこう」と、4年生の春から普通に就職活動をしてJCBから内定が出た時点で活動終了。切り替えて100%サッカーに打ち込むも、4年の秋季リーグで無念の2部リーグ降格。プロからのオファーは皆無だった。入団テストも受けたが、引っかからず。サッカーのプロの道が閉ざされ、卒業後は、JCBに入社することとなった。
「就職活動では、仕事自体の面白さよりも、一緒に働きたいなと思う人がいる会社に行きたいと思っていました。OB訪問で早稲田大出身の社員の方と2度お話をさせてもらったら、会社の話は少なくて、破天荒なプライベートの話や個人的なことなどがほとんどだったのですが、かえってそれが好印象でした。社員の方がこんな感じの方だったら、苦しいことがあっても乗り越えられると思いました」。社員の人柄、社風に加え、JCBが「世界で活躍できる可能性がある」という点が最後の決め手となったという。
「JCBに入ったら、何かサッカーとリンクさせられないかとも考えましたが、いきなりは難しい。入社当初は、大学のサッカー部の人たちに、年会費無料の専用カードを持ってもらうのが精いっぱいでした」
社業にも慣れ、2年目を迎えるころ、社会人のクラブチームのエリースFC東京の活動に参加することに。「いろんな大学出身者がいて、早稲田のサッカーしか知らなかった自分には、それぞれのやり方、考え方がとても新鮮に感じられました。のびのびとプレーができて、サッカーを心から楽しめました。練習後の仲間たちとの会話もサッカーだけでなく、仕事の悩みや恋愛とか心を割って話せるのも嬉しかった。チームメートとの出会いに感謝しました」。


会社員をしながらトライアウトに合格。1年後、衝撃の0円提示

エリースでの活動は、早川さんをインスパイアし、サッカーの可能性を大きく広げることとなった。ポジションも変わって、体も動くようになり、サッカーへのモチベーションが高まったとき、設立されたばかりの横浜FCのトライアウトを受けてみることにした。「営業先の方に薦められ、2日間有休をとり、とりあえず参加してみました」。
初日は1200人が参加し、基本的なプレーを、翌日は30~40人に絞られ、ミニゲームを審査された。手ごたえはあったが確信はなく、いつものように出勤したら、スポーツ紙に飛ばし記事で「早川、合格」と出ていることを知人から知らされた。会社に言ってなかったので焦っていると、横浜FCから「2週間帯同して、4チームと練習試合をして最終決定します」と連絡が来た。帯同はできないが、外回りの仕事中にこっそり4試合だけに出てみようと、会社が知らないのをいいことに試合に出て、契約が決まった。
家族からは「プロは保証がないので、先々が心配」と言われたが、世界的に著名なリトバルスキー氏が監督を務めるとなれば、リスクはあれどチャンスにかけてみたいという気持ちを抑えられるはずもない。会社に決意を告げ、受理されると、最終日には大勢の社員の前で、壇上でスピーチをさせてもらい、温かく送り出してもらえた。
そして入団から1年。早川さんは、戦力外通告を受けた。プロの世界は厳しかった。
「最初はプロの練習のハードさに体がついていけず。慣れてきた夏に、しばらく寝たきりとなるほどの大ケガを負ってほとんど試合に出られなくなった。契約更改で0円提示をされ、頭が真っ白になりました。他チームのトライアウトを受けるも、受かったのは社会人のチームひとつだけ。そこも正社員ではなく、アルバイトでの採用と聞いて、あまりに先が見えなかった。プロの道に見切りをつけました」
早川さんは、働きながら、再びエリースでサッカーを続けようと決意した。

 


JCBへの出戻りを断られ、ベンチャーへ そして再チャレンジ

就職を考えた時、まずは古巣のJCBに再就職したいと考え、会社にかけ合うも、断られる。「好きなことに挑戦して、ダメだったから戻りたいなんて甘すぎました。何社か当たっていた時に、”体育会出身のトップ選手なら、営業でも活躍できる力があるだろう”とベンチャー企業からお誘いを受け、入社しました」。クリック保証型の広告会社で、まだ知名度がないので、営業のアポイントをとるのも、商談に入る前に会社のことを説明するのも、初めての経験だった。ベンチャーマインドが強く、ある意味プロフェッショナルな会社で、新たなやりがいを感じたが、営業成績に厳しく、人の回転が速いことに気づく。早川さん自身は達成を繰り返していたが、JCBの社風を懐かしく思い出していた時に、電車の転職サイトの中吊り広告の「JCBインターネット通販強化」という1行に目が留まった。今、自分が担当している仕事の経験が生かせるのではないか。早川さんはJCBの中途採用に応募し、適性検査と何度かの面接を受けて入社を決めた。ただ、退職から3年間のブランクは考慮されず、給与等の条件は再入社時の新卒と同等とされた。「それでも自分としては昔の同期たちには負けないと意識して、昇進も頑張りました」。
それから20年間、早川さんはJCBに勤務することとなった。
「ポジションが上がるにつれて、仕事は一人でやるものではないと痛感するようになりました。サッカーをしていたころは、自分が試合に出て、得点に絡めたりしたら、チームの勝敗は気にならないみたいなところがありました。一人でできることって、サッカーでも仕事でも限られていると思っているので、チームでいかに大きい物事を成し遂げ、達成感を味わうことができるか。メンバーにそういう気づきを与えられるのが自分の役目だと思うようになりました。今までの経験がそこで役に立っているのは間違いないと思います」。


サッカー、社会人経験、全てを生かして一般社団法人を設立

早川さんは、2021年末でJCBを退職し、今は有志と共に立ち上げた一般社団法人グローバルブリッジプラスで活動している。「スポーツを通じて、未来を担う世界中の子供たちに“夢をもつことの素晴らしさ”を伝え、その夢を実現させるような仕掛けづくりをしていきたいなと思っています。具体的にはA.S.E.A.N.中心にサッカー教室やスポーツ教室を展開したり、教育事業として学校や施設をつくって教育プログラムを提供したり、A.S.E.A.N.でU12の大会を開催する予定です。スポーツでチャレンジしてみたい人たちに、クラウドファンディング的な仕組みをつくってそのきっかけを与え、モバイルアプリで多くの人たち人たちに支援してもらうコンテンツを世に出したいと思っています」。
新しい団体を立ち上げたのは、JCB時代の経験が伏線となった。2012年にJCBがJリーグのトップパートナーになったとき、自らJリーグのプロジェクトに関わりたいと申し出て、東日本エリアのプロジェクトマネージャーに就任。JCBの金融ビジネスとJリーグクラブをつないだ。「Jリーグのクラブチームと地方銀行を結び付けてクラブの電子マネーを発行したり、スタジアムのキャッシュレスの話をしたり。大宮アルディージャにいた大学時代のサッカー部の先輩がラオスでサッカー教室をやりたいと連絡してくださって。社内で交渉したら、これからのマーケットとしてラオスでのJCBの認知度を上げたいというニーズも確認できて、実現できることになりました」
帰国後、その活動が日経新聞に取り上げられ、Jリーグとのスポンサードの延長にも貢献できた。ラオスではサッカー教室を6年続けて開催もできた。現地とのつながりもでき、喜んでくれる人たちがたくさんいることを実感。その経験がまた新たに早川さんの可能性を拡げて行く。「Jリーグに入るには、日本代表に選ばれるには、という目標にゴールを定め、逆算して予定を立てていくやり方など、サッカーで身に付いた習慣は、仕事でも生かせると思います。仕事は一人でやるものではないと気づき、人を巻き込み仲間を増やしていく術も知っています。この人だと思う人と一緒にやることで、自分だけでは見られなかった新しい景色もみられる。サッカーが好きな子供たちにも、そんな景色を見る喜びを感じてもらいたい」。サッカーへの関わり方は変わったが、勇気を持って行動し、チャレンジし続けている早川さんは、これからも新しい道をどんどん切り拓き続けるだろう。

 

PAGE TOP