大日方邦子『スポーツで得たことの全てが、今のキャリアにつながっている。』

大日方邦子 チェアスキー

大日方邦子。高校生のときにチェアスキーと出会い、冬季パラリンピックに5大会連続出場した日本のパラアルペンスキーのパイオニア。長野1998冬季パラリンピックでの日本人初(冬季大会)となる金メダルをはじめ、合計10個のメダルを獲得しました。代表選手引退後は、スポーツやパラリンピックと多くの人をつなぎ、魅力を伝える役割にシフト。(株)電通パブリックリレーションズのオリンピック・パラリンピック部でシニアコンサルタントとして活躍しつつ、日本パラリンピアンズ協会副会長なども務めています。


大日方さんのスポーツキャリア
  • 3歳のときに交通事故で負傷。
  • 幼少期から、水泳をはじめさまざまなスポーツに親しむ。
  • 高校2年生の時にチェアスキーに出会う。
  • 中央大学法学部に進学。日本チェアスキー協会の強化部員となる。
  • リレハンメル1994冬季パラリンピック出場。
  • 大学卒業後、NHKにディレクターとして入局。
  • 長野1998冬季パラリンピック出場。滑降で日本人初の冬季パラリンピック金メダル。スーパー大回転で銀、大回転で銅の合計3つのメダルを獲得。
  • トリノ2006冬季パラリンピック出場。大回転で金メダル、滑降・スーパー大回転で銀メダル。
  • 2007年、競技により集中できる環境を求めて(株)電通パブリックリレーションズに転職。
  • 2008年、右肩脱臼。手術と半年間のリハビリを行い、選手として復帰。
  • バンクーバー2010冬季パラリンピック出場。大回転と回転で銅メダル。同年、日本代表選手引退。
  • 2016年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程入学。2017年同課程修了。
  • 平昌2018冬季パラリンピックの日本代表選手団団長を務める。
  • 現在、日本パラリンピック委員会運営委員、日本パラリンピアンズ協会副会長など、パラリンピックやスポーツに関わる多くの役職を務める。

さまざまなスポーツの経験が、スキー上達の糧に

大日方さんがチェアスキーと出会い、初めてスキーを体験したのが高校2年生のとき。それからわずか5年後には、リレハンメル1994冬季パラリンピックという世界の舞台に立っていました。この驚異的な成長の背景には、幼少期からさまざまなスポーツに親しんできた経験があると、大日方さんは語ります。

「スポーツは常に、私の身近にありました。私は小さい頃にケガをして義足で生活していたのですが、小学校の体育の授業や運動会も、自分なりに工夫して参加していました。水泳の授業に出たくて、両手で泳げるように特訓したり。両親も、それを後押ししてくれました。障がいがあるからといってスポーツを避けるのではなく、自分なりにできることを見つけるという経験があったので、チェアスキーに出会ったときには、『この道具があれば私もみんなとスキーができる!』とワクワクしました」

当時はヒット映画などの影響もあり、スキーブームが再来していた時期。大日方さんも、「友達同士でバスに乗ってスキーに行く、というのが憧れでした」と言います。

はじめて体験したスキーに、大日方さんはすぐに夢中になりました。しかし当初は、大日方さんにとってスキーは、純粋に楽しむためのスポーツでした。競技を意識するようになったのは、大学生になってから。横浜市の障害者スポーツ文化センター(横浜ラポール)で、水泳などさまざまなスポーツを楽しんでいた大日方さんに、チェアスキー協会の関係者が声をかけたのがきっかけでした。

「このスポーツ文化センターの隣に、私がチェアスキーと出合ったリハビリセンターがあったこともあり、『すごくスキーが好きな子がいる』という噂が伝わっていたようです。チェアスキー協会の強化部に入らないかと誘っていただきました。そのときに初めて競技としてのスキーを意識して、やってみたいと思ったのです」

大学1年の冬から強化合宿に参加。競技初心者ながら先輩アスリートに混じって貪欲に滑り続けた大日方さんは、着実に成長していきました。

「とにかくスキーが好きで楽しくて、滑りたくてしょうがなかったんです。いろいろなスポーツを経験していたので、バランスを取ったり遠心力を利用する感覚などがある程度身についていたことも、大きかったと思います」

そして、まだ技術的には未熟ながら、4年後の長野大会での活躍を期待され、大日方さんは若手成長株としてリレハンメル1994冬季パラリンピックの選手に選ばれることになったのです。

自分の力で進もうとすることで成長できた

選ばれた当初は、パラリンピックがどんなものかもよくわかっていなかったという大日方さん。プレッシャーや葛藤は、選ばれた後からじわじわとやってきました。

「日本代表として各所にご挨拶に行ったり、いろいろな資料を見たりするうちに、『とんでもないところに行くことになっちゃったんだな』という自覚が出てきて。実力がないのに選ばれたという、先輩たちへの申し訳なさなどからくる葛藤もあって、選ばれてしまってからのほうが重圧をひしひしと感じるようになりました。パラリンピックを迎えるまでの限られた時間の中で、できる限りのことをしなければと決意しました」

そこで大日方さんは、先輩アスリートをはじめさまざまな人に連絡をして助力をお願いし、練習ができる環境を整えようと自ら動き始めます。

「当時は自家用車も持っていなかったので、まずスキー場に行くのも、誰かにお願いして連れていってもらわなければなりません。あまりお金もなかったので先輩の家で自主合宿させてもらうなど、多くの方にサポートしていただきながら、練習スケジュールを組み立てていきました。両親はスキーに関しては『何も手伝わないから、あなたが全部やりなさい』というスタンス。でも、自分のやりたいことをきちんと説明して説得すれば、協力してくれました」

まずは自分の意思で決めて動き、それを周りの人たちがサポートし、両親は最後のセーフティネットの役割を果たす。そんなふうにやらせてもらったからこそ今の自分がある、と大日方さんは振り返ります。

「子どもがすることですから、親や周りの大人から見ると、効率が悪かったり間違った選択もしていたでしょう。でも、たどたどしいながらも一歩一歩進むのを、手は出さずに見守ってもらったからこそ、いろいろな経験ができて成長につながり、壁にぶつかったときの越え方も身につけられたのだと思います」

「自分への挑戦」と「社会への思い」がモチベーションに

初めて立った世界の大舞台では、「とにかく滑りきることだけを考えた」という最初の滑降で5位。しかしその後の種目では、もっと速く滑りたいという欲が出てすべて転倒してしまったと、大日方さんは笑います。

この大会では、その後の目標となる選手との出会いもありました。

「同じチェアスキーヤーで米国代表のサラ・ウィル選手です。彼女からは、自分たちがやっているスポーツに誇りと責任を持ち、さらに、それを発信してメッセージを次世代に伝えていくことの大切さを学びました。その姿を見て、私もこんな人になりたいと思いました。そして、次の4年後の大会では、少なくとも彼女と競い合える選手に成長していたいと強く思って、それが長野大会へのモチベーションにもなりました」

その長野大会の滑降で、大日方さんはサラ・ウィル選手を僅差で押さえて、冬季パラリンピックでは日本人初となる金メダルに輝きました。

「自国開催というのはやはり特別なことで、想像以上に多くの応援をもらってそのパワーにうまく背中を押されて、自分の実力以上の力が出せたのかなと思います。それで、次はもっと努力を積み重ねて、実力で金メダルをつかみたいと心に決めました」

そこから大日方さんは、バンクーバー2010冬季パラリンピックまで5大会連続出場。金メダル2個を含む合計10個のメダルを獲得するという結果を残したのです。

初出場のリレハンメルから数えれば、16年。それだけの長い間モチベーションを保ち続けられた秘訣は、どこにあったのでしょう。

「パラリンピックに挑戦し続けるモチベーションは、今振り返ると、大きく二つあったと思います。ひとつは、自分への挑戦。記録に挑戦したり自分の限界を超えていくことは、純粋に楽しいですね。もうひとつは、スポーツの持つ社会性。私が速く滑ったりメダルを取ったりすることで、『ありがとう』と言ってもらえたり、『感動して、私もスキーをしたいと思った』という人が出たり。また、長野大会以前は、チェアスキーの存在が一般にはほとんど知られていなくて、スキー場で門前払いされてしまうようなこともよくありました。それが、金メダルを取ったことで一気に理解が広がりました。そういう経験を通して、スポーツやパラリンピックの『伝える力』の強さを実感しました。私ががんばることで、少しでも人の気持ちや社会を変えることができるという思いは、大きなモチベーションになりました」

自分で選んだなら、それが「最良の道」

長年アスリートとして活躍を続けてきた大日方さんですが、常に順風満帆だったわけではなく、さまざまな選択を迫られるターニングポイントがあったといいます。大学卒業後にNHKに入局した大日方さんは、ディレクターとしての仕事と競技生活を並行して続けていました。しかし、バンクーバー2010冬季パラリンピックを見据えた2007年、現在の電通パブリックリレーションズに転職します。

「NHKのときは、完全に仕事と競技の二足のわらじで、プライベートも何もなく仕事以外の時間はすべてスキー、という生活でした。それでも、仕事は私の力や時間をすべて注ぐことはできませんから、どうしても周りに迷惑をかけてしまうという思いがありました。睡眠時間を削ったりしてがんばっても、7~8割までもっていくのがやっと。他方で、競技にかける力は減らしたくはないので、全体で見ると完全にキャパオーバーという状態でやっていた時期もありました。それで、やはりこれは限界があると感じて。自分のキャリアの中で競技だけに打ち込む時期がほしい、それによって自分がどこまでできるのか挑戦したい。そう思って、転職を決意しました」

さらに2008年には、右肩脱臼という選手生命の危機にも見舞われました。

「脱臼なので、手術をするか、温存してリハビリするかの選択です。トリノで金メダルを取った後だったので、周りには、もうそこまで無理をしなくてもいいんじゃないかということも言われました。それでも、選手を続けるなら中途半端なことはしたくありませんでした。すごく悩んで、手術を受けることを選びました」

 手術を受けるためには、約半年は練習を休まなくてはなりません。そのため、滑りながら開発や調整を行うチェアスキーの用具改良が大幅に遅れてしまう、というようなジレンマもありました。それでも大日方さんは、後悔は一切ない、と明るく言い切ります。

「どんな選択をしても、取らなかった選択肢について『あのとき、もしこうしていたら』と考えてしまうことはあると思います。でも、私は何かを決めるときには常に、『私は何のためにこれをやるのか、何故やりたいのか』ということを、とことん考え詰めて明確にしていました。それが、すごく重要だったと思います。人に言われて選んだことだったら、うまくいかなかったとき、もしかすると人のせいにしてしまったかもしれません。でも、自分で納得いくまで調べて考えて選んだことなら、それが『最良の道』なんです」

2020年が終わっても、人生は終わらない

そして、バンクーバー2010冬季パラリンピックでは2つの銅メダルを獲得。大日方さんは、日本代表選手を引退する決断をします。

「日本代表を引退しようと思ったのは、自分の次のキャリアを考えたためです。2007年に転職してからバンクーバーまでの3年間、競技8割、仕事1割、家庭1割という生活を送り、競技としっかり向き合わせてもらいました。でも、次を考えたとき、そろそろこの割合を変えた方がいいのではないかと思ったのです。自分自身のアスリートとしての成長スピードの鈍化を感じたことに加えて、子どもが欲しいと思ったことが大きな理由でした」

大日方さんは、2001年に結婚。アスリートだけではない軸で自分の人生を考えたときに、妊娠出産の限界年齢を意識したことは大きかったと言います。

「結果的に、子どもが欲しいならもう5年早く考えるべきだったと言われてしまったのですが。もし、もっと早い段階で女性の体や妊娠出産についてきちんと知っていたら、取り得た選択肢は違ったかもしれないと思うことはありますね」

 代表引退後の大日方さんは、電通パブリックリレーションズのオリンピック・パラリンピック部でシニアコンサルタントとして活躍しつつ、東京2020オリンピック・パラリンピックの招致活動に関わるなど、スポーツやパラリンピックと多くの人をつなぎ、魅力を伝えることに尽力しています。また、パラリンピックをさらに発展させる方法を考える一助とするため、早稲田大学の大学院で1年間、スポーツビジネスやスポーツマネジメントを学びました。

「実は、引退して2~3年は、いろいろ迷って悶々とする時期がありました。まず、いきなり机の前にずっと座っている生活になったことに、体と気持ちがついていかなかったんです。パラリンピックでメダルを目指す、というような選手生活では当たり前だった長期の目標が、仕事や生活の中ではうまく見つけられない、という悩みもありました。さらに、ビジネスの場では当たり前に必要とされる、例えばパワーポイントで資料をつくる、というようなスキルが私には欠けていることに気付いて、愕然としたり。それでも、いろいろな方と話をして、これは私だけの悩みではなく、先輩アスリートたちもみんな悩みながらやってきたんだな、ということに気付いたら、ちょっと安心して落ち着いて。あまり焦らず、これから自分なりの道を探していこうという気持ちになれました」

 新しいステージでぶつかった壁を乗り越えるのには、アスリートとしての経験も役立ったと言います。

「勝つためには何をしなければならないかという道筋のつかみ方や、大事な大会にコンディションをピークに持っていくために逆算して今何をすべきか考えていくやり方は、仕事や勉強で目標達成に向かうときの戦略に通じます。また、競技生活でさまざまな選択を迫られたことは、人生のキャリアを考えるときの優先順位の付け方や判断に生きています。いろいろな失敗も含めて、スポーツで得たことは全部、今の私のキャリアにつながっているなと感じます」

 最後に、ご自身の経験から、若いアスリートの皆さんへのアドバイスを伺いました。

「アスリートは、競技に打ち込めば打ち込むほど、目の前のことだけしか考えられなくなりがちなものだと思います。特に今、東京2020オリンピック・パラリンピックを目指しているときには、『2020年がゴール、その先の事なんて考えられない』という人もいると思います。でも本当は、2020年が終わっても、人生は終わらないんです。大会後に不必要なバーンアウトに陥ることを避けるためにも、スポーツ一辺倒にならず、『仕事』『家族』『社会的な役割』など、キャリアを考えるときの軸を複数持って、自分はどんな生き方をしたいのかを考えていくことが大切だと思います。特に女性は、体のことも含めて自分のキャリアを考えてほしいですね。そして、周りの人たちは、アスリート自身の考えを大切にしながら、適切なタイミングで情報提供をしてあげられるといいのではないでしょうか」

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