競技との出会い
1964年生まれ。幼稚園の頃、母親の勧めで地元のサッカースクールに入部し、直ぐにサッカーが大好きになった。小学生の頃には東京都選抜チームの一員として全日本少年サッカー大会に出場した。
これまでのキャリア
●1987年 日本体育大学卒業 東京教員クラブ 青梅FCでプレー
●1997年 ベルマーレ平塚でプロ指導者キャリアスタート
■■■■■セレッソ大阪、浦和レッズ、大宮アルディージャでコーチを歴任
●2004年 尚美学園大学サッカー部ヘッドコーチ 三浦知良氏パーソナルコーチ
●2005年 横浜FCでコーチ
●2008年 名古屋グランパスのコーチに就任、2015年までアシスタントコーチを務める
●2009年 JFA S級コーチライセンス取得
●2015年 中国スーパーリーグの広州電力でヘッドコーチに就任
●2021年 セルビア代表コーチに就任 2022年ワールドカップ、2024年欧州選手権(EURO)に出場
■サッカーの指導者を目指した学生時代
小学生の頃から夢中になったサッカーだったが当時はまだプロサッカーというのがなかった時代で、小学校卒業時の将来の夢は、『選手引退後は、サッカーの指導者でピッチに立つこと』だった。中学校、高校とサッカーを続けながら、サッカーの指導者となる為に教員を目指し、大学は日本体育大学に進学し教員免許を取得した。同時に選手としてもプレー。
大学卒業後、高校の教員となりサッカー部の顧問として指導者のキャリアがスタートし、東京都高校体育連盟サッカー地区選抜コーチや監督を歴任。当時は選手として関東社会人のクラブチームでプレーを継続していたが、選手としてピークを過ぎた1993年にJリーグが発足。子供のころから目指していたサッカー指導者となったものの、やはり一人のサッカー選手としてプロ選手になりたかった気持ちもあった。
■プロサッカーの世界で指導者となるために
教員となりサッカー指導者となったが、更に上のカテゴリーを目指したいと思い、最先端のサッカーを科学的に学ぶために2年間必死で勉強し、教員でありながらも東京大学大学院に進みサッカーコーチ学を学んだ。その後、自身の転機となる人物と出会い、Jリーグベルマーレ平塚のフィジカルコーチに就任することになる。11年間の教員職を辞めプロ契約のコーチキャリアがスタートした。プロ契約といっても一年契約が主流の世界であり、その現状に留まらず更に高いレベルを目指すためにS級ライセンスを取得し、世界を視野に入れて語学も学んだ。
■プロサッカーの指導者になってから
Jリーグ、ベルマーレ平塚のコーチ就任後、セレッソ大阪、浦和レッズ、大宮アルディージャとチームを渡り歩き、2004年には尚美学園大学でヘッドコーチを務め、2005年に再びJリーグ横浜FCのコーチに就任した。横浜FC時代ではJ2からJ1に昇格する実績も残し、また、三浦知良選手のパーソナルコーチを務めていた実績が評価され、2008年に当時の名古屋グランパスエイトのストイコビッチ監督からオファーを受けフィジカルコーチに就任した。2009年にはJFA S級コーチライセンスを取得し、2013年から2015年まで名古屋グランパスエイトのアシスタントコーチを務める。その後、ストイコビッチ氏からのオファーを受け中国スーパーリーグのヘッドコーチに就任。その後、2021年にストイコビッチ氏がセルビア代表監督に就任した際に直ぐに声がかかり日本人で初めて欧州代表チームのコーチに就任した。
■自身のキャリアを磨く努力
子供の頃にプロサッカーがあればそこを目指し今とは違う人生だったかもしれない。でも、小学生の頃に思い描いた「サッカーの指導者でピッチに立つこと」、この気持ちが変わることはなかった。教員となりサッカー指導者になった頃、また、自身の選手としてのピークが過ぎたころにJリーグが発足したことも、指導者として更に上の世界を目指すキッカケになっていた。Jリーグのコーチに就任してからも一年一年常にコーチ論を勉強していた。語学力の向上も含めて自分なりの努力があったからこそ今があると思っている。日本人で初めて海外代表チームのコーチとしてワールドカップ、欧州選手権(EURO)のピッチに立てたことを誇りに思っている。
■常に次を考えることを大事にしてほしい
サッカーの最高峰であるワールドカップや欧州選手権(EURO)のピッチに指導者として立てた。自身の次のステージはトップチームの監督になることである。スポーツアスリートの人たちもどこかで必ず転機が来ると思う。選手としてプレーしている時期は中々次のキャリアのことを考えることは無いかもしれないが、セカンドキャリアは必ずついて回るもの。選手経験をキャリアマックスとは考えずに、常に次を考え何年か先の自分が何をしたいのかを考えながら生きていくことが大事だと思っている。