競技との出会い
1981年生まれ。バレーボールを始めたのは小学校2年生。父親がママさんバレーのコーチをした事をきっかけに姉二人もバレーボールを始め、バレーボールが生活の一部になっていた。
これまでのキャリア
●2002年 デンソーエアリービーズ入団
●2003年 ユニバーシアード日本代表 主将
●2005年 Vプレミアリーグ3位 日本代表候補に選出
●2008年 Vプレミアリーグ準優勝 黒鷲旗(くろわしき)全日本男女選抜バレーボール大会優勝
●2010年 日立リヴァーレに移籍 日本代表メンバー選出(アジア大会出場)
●2011年 アゼルバイジャン イトゥサチ・バクーに移籍
●2012年 引退
■高校卒業時
文京女子大学付属中学校(現、文京学院大学中学校)から、高校は成徳学園高等学校(現、下北沢成徳高等学校)に進学しインターハイ・春校バレー・国民スポーツ大会にも出場した。
高校卒業時、女子バレーのトップ企業からのオファーはなく、チームメイトの多くは企業チームでプレーすることを選択していたが、自身は嘉悦短期大学(現、嘉悦大学)へ進学する。「企業にお願いして入れてもらっても、少なくても3年程度はレギュラーとして試合に出られない」「嘉悦なら、短大だし1年生からコートに立って経験を積めると思う」と当時の恩師、小川良樹先生の助言もあり、進学を選択した。その学生時代はユニバーシアード日本代表にも選出され、2年連続全日本インカレでも優勝をはたし、短期大学卒業後はVプレミアリーグ(現、SVリーグ)に所属するデンソーエアリービーズに入団を決めた。
■現役時代
デンソーエアリービーズでは、セッターとして活躍。入団2年目にはユニバーシアード日本代表に再び選出され主将を務めた。2004-05シーズンではチームを3位に導く活躍を見せ、初めて日本代表候補に選出される。2007-08シーズンには準優勝を果たし、黒鷲旗(くろわしき)全日本男女選抜バレーボール大会ではチーム初優勝へと導く活躍だった。
セッターとしての評価も高まっていたが、当時同じポジションには後にオリンピックメダリストになった竹下佳江選手の存在は大きかった。竹下選手と比べた時、世界と戦う経験値が圧倒的に少ないと感じ、その差を埋める為にと海外挑戦を決断しチームを退団するも結果的に実現せず、国内の日立リヴァーレに移籍することになるが、1年後に再び海外移籍のチャンスを貰い、アゼルバイジャンのチームに移籍した。
■海外のチームで戦力になれなかった
海外のチームへの移籍に不安もあったが背中を押してくれたのは母親だった。
強い気持ちで挑みやり切った思いもあったが、2009年に手術した右膝の影響もあり、結果としてチームの戦力になれず1シーズンで日本に戻ることになった。日本のチームでプレーを続けることも可能だったが、当時はこれ以上強い気持ちでプレーすることが難しいと思い引退を決断した。
■選手引退後
選手引退後は、バレーボールの現場から離れてみようと考え派遣登録して仕事を探していた。
タイミング良くミズノ株式会社での派遣業務があるとの事で、派遣社員として仕事を始める。3年間は派遣社員・アルバイト契約で業務に就いていたが、その後契約社員の期間を経て正社員として採用された。通常の業務に加え、バレーボールの普及活動の一環としてコーチ資格を取得し、競技指導やイベントなどにも参加。ネット配信サービスのDAZN(ダゾーン)やBSフジでバレーボール中継の解説なども担当した。
コーチ業ではない形でバレーボールの現場に再び戻れたことに喜びとやりがいを感じることができた。
■スポーツに関わる仕事
現在はミズノ株式会社でバレーボール用品をより多くのチームや企業に使用してもらう営業活動がメイン業務だが、以前は様々なスポーツ競技の営業サポートも行っていたので、バレーボールに限らず様々なスポーツ競技や商品知識を学べ、新たな競技関係者との関係構築や関係者との接点を通して、小学生から社会人チームまで幅広く仕事ができている。また、バレーボール担当としては、社内で数人しかいないエキスパートの仕事にも就けているのでとてもやりがいを感じている。
■次のキャリアでもきっと活躍できる
選手を引退して会社員となった時、最初は沢山の苦労があると思う。でも現役時代に鍛えられたハートやコミュニケーション能力、目標達成に向けた取り組む姿勢は誰にも負けるものではない。色んな仕事を経験してみて自分のやりたいことを見つけることも良いと言うが、やりたいことが見つからない、そんな時は目の前にある物を大事に、一つ一つ積み上げて行く事でも良いと思う。そしていつかやりたい事が見つかり、それに向かって進んでいる時、きっと人生は楽しくなる。