西山 将士
1985年生まれ。山口県下関市出身。6歳の時、柔道をはじめる。高校3年でインターハイ優勝をきっかけに日本代表として活躍。その後、2012年ロンドンオリンピックに出場し-90kg級で銅メダルを獲得。2016年1月現役を引退し、30歳でビジネス経験ゼロから5年間鉄鋼メーカーの営業に従事した。在籍時は、デリバリー業務から鋼材取引の商慣行の見直し、サプライチェーンの改善や生産拠点の合理化などを担当した。営業としての経験を積んだ後、2020年12月にProver株式会社を創業。現在は業種職種を問わず法人の採用支援と20代のキャリア支援事業に取り組んでいる。
これまでのキャリア
●2008年3月 国士舘大学体育学部卒業
●2008年4月 新日本製鐵株式会社(現:日本製鉄)
●2008年 – 2011年 講道館杯 4連覇
●2009年 全日本選抜柔道体重別選手権 優勝
●2010年 – ワールドカップ・サルヴァドール 優勝 世界団体 優勝
●2010年 – 2011年 グランドスラム・東京 2連覇
●2012年 – ワールドマスターズ 優勝
●2012年 – ロンドンオリンピック 銅メダル
●2020年12月 Prover株式会社を創業
■スポーツは柔道一直線
小学校1年の時に4つ上の兄の影響で柔道をはじめる。母親の道場への送り迎えに付き添ったことがきっかけで、柔道は当初好きではなかったが体も大きく県内では強かったこともあり徐々に興味が強くなっていく。他のスポーツは小学校4年生から2年間ほどサッカーも経験したが自分自身で向き不向きを判断し6年生の時に柔道を選んだ。
母親からは、一度自分でやると決めたら期限付き(小学生卒業まで)で絶対にやめてはいけないという強い教えがあったという。そして西山さんも約束を守らなければならないという想いがあり柔道を続けたという。
中学への進学は、通っていた道場の先生の勧めで柔道が強くて有名な北九州市立守恒中学校に進む。中学校3年生時に当時の3大全国大会の一つであるマルちゃん杯で個人戦3位という成績を残す。その成績が目に留まり高校は東京の国士舘高校に進む。高校では個人戦100キロ級で2003年にインターハイに優勝。その後、ドイツジュニア国際大会でも優勝を果たす。
練習はコツコツやるタイプ。先生にも恵まれた。厳しい先生ではあったが論理的に指導されることで、柔道は力やスピードだけが全てではない競技ということを学ぶことができた。中学時代からとにかくエネルギーを全て柔道というものに打ち込むことができた。
■社会人1年目でオリンピックを明確な目標にして見事にメダリストに
高校卒業後は、そのまま国士舘大学へと進む。大学では100キロ以下級で出場していたが、当時この階級には北京オリンピックで金メダルをとった石井慧選手がいたことと、自身の体重も96kg程度と同階級で戦っていくには身体が小さい。在学時はほぼ二番手、三番手で優勝を飾ることはできなかった。
大学卒業後、新日本製鐵株式会社(現:日本製鉄株式会社)に入社。もちろん柔道での環境が整っているのが条件で集中して練習ができると言う理由。義理堅い西山さんは、最初に声をかけていただいた企業に入ると決めていたそうだ。社会人1年目から、ほぼ全ての時間を柔道に注ぎ込めるという恵まれた環境の一方で「ビジネスと柔道を両立する」という聞こえの良い立ち位置にとても苦しんだ。実態は出社頻度の少ない運動部に出来る仕事や任される仕事は極めて限定的である。入社1年目で職場の皆さんに存在価値を提供できないもどかしさから、「どうせやるなら柔道に振り切るべきだ」と社会人1年目でオリンピックを目指すことを決意した。
社会人になると-90キロ級に階級を下げ2008年からは講道館杯四連覇を果たす。これは大学の先輩である鈴木桂治さん以来の偉大な記録。国際大会ではアジア選手権、東アジア選手権で優勝。団体戦もワールドカップ世界団体で大活躍。優勝に大きく貢献した。
2011年12月のグランドスラム・東京でも二連覇。そして2012年1月のワールドマスターズで世界王者のイリアディスを破り優勝。2020年5月の全日本柔道選手権では決勝で敗れたものの世界ランキングの関係上ロンドンオリンピック代表に選出された。
ロンドンオリンピックでは準々決勝で敗れたものの、敗者復活戦で見事に勝ち上がり、三位決定戦でも勝ち上がり見事に銅メダルを獲得した。
目標としていたオリンピック。西山さんは独特のメンタリティーで語る。
「オリンピック出場が決まってからロンドンに行くまでは楽に感じた。なにがあっても自分が出場する切符があるので、緊張や重圧を感じずにオリンピックに集中できた」と。そして大会中は、興奮状態でワクワクと不安がひしめき合う状態だったと。
■2016年のリオデジャネイロ・オリンピックに出場できる可能性が全て絶たれ、引退を決意
その後、2013年世界選手権代表に選ばれるも二回戦で敗退。2015年8月の実業団の全国大会では優勝したものの、その後のリオデジャネイロオリンピック1次選考で敗退し、引退を決めた。2013年の28歳頃から自身のセカンドキャリアについて考え始め、不安や葛藤を抱えながら競技に打ち込んだ。
ただ、当初の母親の教えである「自分で決めた約束は守る」という拘りは強く、次のオリンピック出場が白黒つくまでは続けるべきだと当初から考えていた。
オリンピックでメダリストとなったものの、この時点では他にそれを活かせるスキルや経験がないと判断し引退して社業に専念することを決意する。
「24年間の競技人生を振り返れば『柔道着に日の丸をつけてオリンピックという最高の舞台で世界のライバルと戦えたことを誇りに思う』という境地に到り引退の決断をすることが出来ました」とコメントしたと西山さん。
22歳から社会に入って経験を積んでいる同期社員に、30歳でビジネス未経験の自分がいきなり肩を並べて仕事をすることは難しいことは最初から分かっていた。周囲からは「スポーツで真似できない成果を出せたんだから他の世界でも必ず活躍できる。絶対大丈夫だ。」と声を掛けられたが全く腹落ちせず、その声も鵜呑みにすることが出来なかった。柔道を引退すると、教員や柔道の指導者という選択肢もあったが、
“柔道だけできる自分”に強い消失感があり、このまま指導者になったとしても厚みのある指導はできないと思い立ち、社業に専念することを決意した。
■柔道やスポーツを頑張れば社会でも活躍できると言うならば、自分でやってみせて証明しなければならない。
メダリストになれば将来は指導者になれる道も残されているが、他の世界で活躍を求めるなら、自分で努力して実績を積み上げる他ない。
社業に専念し始めた当初は本当に苦労した。商談の経験もなければ議事録も書いたことがない。最初の担当業務は既存顧客への営業だったが「元々トップアスリートでした。気合いと根性はあります!」という営業トークが通用する世界ではないし、何よりこのような営業手法は自分自身や柔道の価値を削ぎ落とすような気持ちがあり、それを強く拒んだ。
未経験ながら、先ずはお客様や周囲の方に迷惑はかけまいと必死に食らいついた。予算作成やデリバリー対応・取引先との価格交渉や新製品の企画提案。30歳にして初めての経験ばかりだったが、3年経ったころにはしっかりと身についていくのがわかった。営業4年目にはすっかりと自分のものにすることができ、自信も付き2年後には起業できればと考え始めるようになった。
■アスリートをはじめとした凡ゆる人と組織が活躍できるインフラをつくる
現時点で自分自身の経験を振り返ると、ファーストキャリアで特殊な専門職を経験して、30歳から未経験でビジネスのセカンドキャリアをスタートした。先に経験した特殊な専門職がたまたまアスリートだったというだけの事であり、芸能や芸術など、寧ろこれら以外の専門的な職種も含めた職業の一つに過ぎないと言える。このような自身の経験から、セカンドキャリアでは就業未経験だとしても自身の置かれた環境に奮起し、成果を上げることが肝要だと捉えている。これは個人だけの力ではなく組織の適切なサポートも必要である。一方で労働とは、社会的・経済的な価値を生み出し続けることであり、これらを考えると個人のwinだけではなく組織のwinも同じ重さで担保する必要があるため、現在の人材事業で個人も組織も効率的に成長できるwin-winとなるインフラをつくっていきたい。