浦本 雅志『スポーツで夢を繋ぐ。 子ども達が心からスポーツを楽しめる環境を行政と協力し、地域を盛り上げたい』

浦本 雅志
1981年生まれ。大分県中津市出身。サッカーを始めたのは小学校3年生。小学校と中学校では県選抜に選ばれる。高校は地元の大分高校に進学。全国高校サッカー選手権大会、国体、インターハイと高校サッカー全国大会全て出場しチームの中心選手として活躍した。高校卒業後、当時J1リーグのアビスパ福岡に入団。2年間の在籍後、当時県リーグ1部のザスパ草津(2024年よりザスパ群馬)に移籍。移籍初年度にチームの関東サッカーリーグ2部昇格に貢献するが、その翌年のシーズン前に交通事故に遭い選手生命を絶たれる。その後プロサッカー選手を断念して一般企業に就職した。15年間会社員として勤務し、2017年にサッカークラブFCジュニオールを設立。未来に向けた子供のスポーツ育成に力を入れる中で、一般社団法人夢プロジェクトも立ち上げ、プロサッカー選手を招いて様々なイベントを開催している。


これまでのキャリア

●1997年  大分高校で全国高校サッカー選手権大会、国体、インターハイ出場
●2000年  アビスパ福岡に入団
●2002年  ザスパ草津(当時)に入団
●2004年  プロサッカー選手を引退
●2004年  一般企業に就職
●2017年  FCジュニオールを設立
●2019年  株式会社FGR(フットボールグラスルーツ)設立
●2023年  一般社団法人 夢プロジェクトを立ち上げる


■サッカーとの出会い

サッカーを始めたのは小学校3年生から。当時はまだJリーグが始まる前で元々は野球好きだったが、一つ年下の弟がサッカーに夢中で凄く楽しそうにしている姿を見て、自身もクラブチームの体験練習に参加してみた。「その体験練習がとても楽しくて、そこから本格的にサッカーを始めることになりました」

クラブチームは市の大会ではトップレベルだったが、県大会では結果を残せなかった。しかし、試合での活躍が認められ大分県の選抜チームに選ばれるようになる。一方、弟は既に九州選抜に選ばれていて、その頃から良きライバルだった。小学校6年生の時にJリーグがスタートしたこともあり、必然とJリーガーになる夢を追いかけるようになった。
中学校は地元の豊陽中学校に進みサッカー部に入る。1994年のサッカーワールドカップアメリカ大会が開催されたこともありサッカーの人気が一気に高まっていた頃。サッカー部での練習はとてもハードだったが技術的にも精神的にも成長し、中学校でも県の選抜チームに選ばれる選手になっていた。


■高校からはJリーガーを夢見て

高校は九州他県の強豪校に行きたいと思っていたが、地元の大分高校の練習に参加した時に「技術的な指導がとてもわかりやすい」と感じサッカー部の特待生として入学すること決めた。当時の大分高校サッカー部は、指導している顧問の先生が3年目に入る頃で、全国大会に出場する強豪校となっていた。その中で浦本さんは1年生の時からサッカーのエースナンバーである背番号10番を背負い、夏のインターハイは2回出場しいずれもベスト8、冬の全国高校サッカー選手権大会は2年生時に出場、国体は3年連続出場した。
1年生の時から複数のプロチームのスカウトから話を聞く機会があり、そこからプロサッカー選手になることを意識し始める。実際、当時J1リーグだったアビスパ福岡からスカウトを受け、高校3年生の夏にチーム練習に参加し入団が内定した
高校卒業後、晴れてプロサッカー選手となり、日本のサッカー最高峰の舞台であるJ1リーグでプレーすることになる。
Jリーグのチームには1チーム50名程の選手が在籍し、トップチーム、セカンドチームに振り分けられる。プロ野球でいう1軍、2軍である。浦本さんは1年目にトップチームに入るものの中々試合に出場することが出来なかった。
「試合に出場できないことから焦りが出て、自分のミスを他人のせいにしていました。まだまだマインド的にも未熟でした。」
入団2年目にチームはJ2リーグに降格となり、そのタイミングで戦力外通告を受けた。当時はまだ20歳で、まだまだこれからの時期だがプロの世界の厳しい部分を経験する。
その後、複数チームのオファーの中から、当時県リーグ1部に所属していたザスパ草津に入団する。これから選手を集めて一からチームを強くしていく段階だったが、選手としてとてもやりがいを感じる部分でもあった。

翌年、チームは関東サッカーリーグ2部へ昇格を果たす。その時の浦本さんの活躍を見た他チームからオファーがあったが、地元大分で交通事故に遭い、サッカー選手を断念せざるを得ない状況となりプロサッカー選手のキャリアが終わることになった。
当時は、あと5年6年プロサッカー選手として活躍したい、そしてもっと上の舞台で戦いたいという想いを持っていたがその想いは打ち砕かれた。
ただ、簡単に諦めることはできず交通事故から回復後、暫くはアルバイトをしながら身体を動かし懸命にリハビリも行ったが、現役当時のレベルに戻すことは難しいと感じ、プロサッカー選手として復活することを諦めた。
「やれることは全てやったので後悔はありませんでした」
その後は地元の企業に就職し、会社員として15年間勤務する。


■プロ育成者への道

会社員として勤務する傍ら、大分県リーグに所属しているクラブチームの一員としてサッカーは続けた。そこでは国体にも出場し、社会人の成年(なるねん)で複数回出場した。「アマチュアとしての出場ではありましたが、サッカーがとても楽しかったです」
子供が小学校に上がる時にサッカーをやりたいと言い始め、それがキッカケでサッカーの指導者の道に進むことになる。2016年の35歳の時、小学校4年生から6年生を対象としたサッカースクールを立ち上げた。
子供たちはそのスクールで技術を磨いていたが、子供たちがチームに戻ると監督やコーチにその技術を否定され、本来のパフォーマンスを発揮できないという現実に直面する。「スクールで磨いた技術をチームに戻ってチャレンジもさせてもらえないのならスクールで教える意味が無くなってしまう。だったら自分でサッカーチームを持てばいい」と思い、2017年にジュニアサッカークラブFCジュニオールを立ち上げた。
「教えた技術を試合で発揮させたい」という思いからスタートしたチームだった。スタートした当初は子供たち20名程だったが、今では中学生も所属しており、幼児向けのキッズスクールも運営し始め、現在はチーム、スクール合わせて100名以上の子供たちが所属している。


昨今、小学校では積極的にスポーツをさせていこうという動きが弱く、中学校の部活動も活動内容が変わってきており、スポーツをさせると怪我をする危険があるというネガティブな部分が大きくなっている。「それではスポーツによって鍛えられる身体の反応や危機管理能力が減っていく一方」と浦本さんは言う。
「普通のスクールでは面白くない、地方自治体と組んで子供たちが楽しくサッカーと触れ合える機会を創っていこう」と動き始めた。

 


■大分県の子供たちと一緒にスポーツを盛り上げたい

「スポーツをする子供が減っている、スポーツをする子供を増やしていきたい。」
その一心で元プロサッカー選手として何かできないかを考えるようになり、仲間と一緒に一般社団法人『夢プロジェクト』を立ち上げ、目的に賛同してくれた他競技のアスリートも集まった。
中学校では部活動廃止の動きがあったり、スポーツをやりたくてもできない子供たちが多くなってきている。スポーツを止めない、そしてスポーツをする場所を無くさないようにと地方自治体と共に取り組んでいる。
「子供たちの未来と地域活性、そこにアスリートのセカンドキャリアを融合させ、サッカーチームの活動を通じて子供たちが笑顔になり、真剣にサッカーに向き合える機会を創りたい」
その想いから、2017年にサッカー元日本代表の前園氏を招いてサッカー教室を開催し、子供たちがプロサッカー選手と触れ合うイベントとして4年続けて計6回開催している。
また、その活動で得た知見をもとにバレーボールやラグビーなど他競技を交えた、夢を叶える『OITA 夢プロジェクト』を開催した。このプロジェクトには地元のサッカーチーム『大分トリニータ』『ヴェルスパ大分』にも協力してもらっている。また、U-10年代向けに ”子どもの自主性、創造性、可能性をのばす” 意図を持つ『ノー・アングリー、フリー・プレー カップ』も開催。

「これらのイベントを通して、子供たちを指導する方々にも何か新しいものを感じとって頂ければと願いながら、これからも大分を起点に全国に発信していきたいです」

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