寺尾悟『引退後は、しばらくは”助走期間”と覚悟して、焦らずに できることからやりきった先に可能性は広がる』

寺尾 悟
1975年生まれ。愛知県出身。ショートトラックスピードスケート選手として、オリンピックは1994年のリレハンメル大会から4大会連続出場。世界選手権金メダル、W杯総合優勝などの実績を残し、引退後は所属企業のトヨタ自動車株式会社で社業に従事。現在は同社のスポーツ強化・地域貢献部に所属。国際スケート連盟技術委員。日本スケート連盟理事。

 


これまでのキャリア

●愛知県立足助高校3年のとき、リレハンメルオリンピックに出場。
●地元の中京大学に進む。学部は卒業後の就職を考え、社会学部へ。
●大学4年で、長野オリンピック出場。メダルを逃し、現役続行を決意。
●大学卒業後1年間、中京大学体育学部で研究生をしながら、就職先を決める。
●地元のトヨタ自動車株式会社に社員として入社。配属先は海外企画部。
●ソルトレーク、トリノオリンピック出場後、人事部に異動。
●バンクーバーオリンピック出場を逃し、34歳で引退。
●現在は、スポーツ強化・地域貢献部に在籍。

 


■大学卒業後は、銀行員になるつもりで社会学部に進学

高校3年生でリレハンメルオリンピックに出場し、4位という好成績を収めた寺尾さんのもとには、複数の大学からオファーが届いた。多くは体育系の学部からの誘いだったが、寺尾さんはあえて社会学部を選んで地元の大学に進んだ。その方が大学卒業時に、一般企業への就職に有利だと考えたからだ。当時はショートトラック選手をアスリート社員として新卒採用してくれる企業がほとんどなかったこともあり、多くの選手が大学卒業と同時に競技から引退していた。
「何事にも慎重なタイプだったので、競技を続けていれば就職は何とかなるなんて、考えてもみませんでした。卒業後は銀行員になろうと社会学部で学び、競技は大学4年の2月に行われる長野オリンピックでメダルを獲って完全燃焼して、引退しようと思っていました」。複数のメダル獲得が有望視されていた寺尾さんは、日本のエースとして挑んだレース中に不運にも転倒。メダルを逃したその瞬間、「あと4年はやる」と決心したという。

「悔しい負け方をしたままで、終われなくなってしまいました」。
卒業後は一年間、大学に研修生として残り、世界選手権1000m金メダル、W杯総合優勝を成し遂げた。世界一にはなったが、オリンピックでメダルを獲得するという目標は変わることなく、競技続行のために地元企業のトヨタ自動車株式会社の入社試験を受け、合格。社員として競技が続けられることになった。

 

 

2009年12月全日本選手権(バンクーバーオリンピック日本代表最終選考会)

 

 

■仕事の実績で同期に差をつけられたと感じ、自ら異動志願

入社後、3年間は仕事や研修がメインの毎日で、練習は1日1~2時間しかできなかった。「大企業は競技環境も整っていて、恵まれている」という人もいたが、実際は試合や合宿のないときは、8時半から17時半まで働いたあとに練習していた。「しんどかったですが、仕事をおろそかにしていたら、スケートの方もダメになってしまう、がむしゃらに今を乗り越えれば必ず何かあるはずと言い聞かせ、限られた時間の中でできる練習を必死に考えて、実行していました」。日本代表として海外遠征に行く機会を獲得し続け、4年目には練習にもより多くの時間を頂けるようになった。
すると今度は仕事量が減ったことで、社業に専念している同期に、仕事の実績でどんどん差をつけられていると感じるようになった。寺尾さんの配属先は3~5年をかけて成果を上げる部署。このままの勤務時間数だと、昇格は厳しいと焦りを感じていたという。もっと自分が会社に貢献できる部署はないか。寺尾さんは入社8年目に、意を決して人事部に異動希望を出し面談を求めた。
「現役選手が自ら部署を変わりたいと願い出たのは、寺尾が初めてと驚かれましたが、アクションを起こさないとまずいと、かなり追い込まれていました」。
異動が叶ったのは4回目のオリンピック出場後の31歳。人事部スポーツイベント・健康推進Gに配属され、社内や退職者向けのイベント企画運営業務を中心に行う仕事に就いた。その部署で競技を続け、5度目のオリンピック出場を逃した時に「やっと世代交代でき、引退することができる」と心底思い引退を決めた。入社12年目。34歳になっていた。

 

 

 

■会社が、引退後のアスリート社員をより活かす配属を検討

現在は所属企業のスポーツ強化・地域貢献部に在籍し、スポーツに関する特命業務人事やスケート部の監督を務めている。「昔は、選手は引退するとそれまで所属していた部署でそのまま社業に専念することがほとんどでした。最近は社会も多様化し、弊社も”クルマを製造するメーカー”から、移動に関わるあらゆるサービスを提供していく”モビリティカンパニー”へと生まれ変わりつつあります。求められる人材も、より多種多様になってきました。引退後のアスリート社員に、自身を活かせる部署を提示し、プロデュースすることを、会社としてより力を入れて取り組むようになりました」。
たとえば、パワーがあり、チームプレーが得意な球技系の元選手が、スーパーフォーミュラのタイヤ交換のスペシャリストに挑戦したり、トヨタ自動車のモータースポーツ部門である「Gazoo Racing(ガズーレーシング)」に関わる仕事に就いてもらっているのもその一例だという。
「選手は引退するとまったく違う畑で、一から働くことになりますが、急に活躍できるようにはなりません。競技では常に結果を期待されていた選手も、正直な話、社業では周囲は最初から過度な期待はしていないのです。まずは基本を学ぶという気持ちで足元を見てコツコツと積み上げていくことが必要です。あまり先のことを考えすぎると不安にもなるので、最初は自分のできることをしっかりやり遂げる。会社では必ず誰かがそれを見ていると思います。同じ部署や所属していた運動部以外で相談できる人を、現役中から社内に見つけておくことも大きな支えになると思います」。引退後の配属先がゴールではなく、そこで全力で取り組んでいるうちに、また新しい選択肢が出てきたり、自身の可能性も広がっていくのが仕事の醍醐味だと寺尾さんは言う。

 

2018年スペイン・セビリアで行われた、第57回ISU(国際スケート連盟)総会の 技術委員会委員選挙において、寺尾氏(写真左)が3回目の当選を果たす。 技術委員会メンバーとの記念写真。

 

 

 

■仕事を自分で創り出していく力をつけたい

現役時代、若い選手との海外遠征が多くなったころから、無理にいっしょには過ごさず、一人でホームページを更新したり、できることを黙々とやるようにしていたという。「孤独にも見えたと思うのですが、一人で時間を有意義に使うという習慣がその時に身につきました。社業に取り組むようになったとき、一人で腰を据え、できるところまでやってみようと、自分で考えて動くことができたのは、その習慣が活きたかなと思います」。
引退後、競技から離れていた寺尾さんは、しばらくして社内のスケート部監督に就任。さらに国際スケート連盟の仕事にも関わることになり、会社からも仕事としていろいろな活動が認められるようになった。
「会社でうまく行かない時、退職して自分で何かを始めたいと考える人もいますが、私の場合は今辞めても、きっと先細りしてしまうと思っていました。慎重なところは変わっていなかったので。実際、世の中のことをわかっているつもりでも、結局は自分の競技の世界の中でだけでしか通用しないことも多々ありました。引退後しばらくは焦らず、今は助走期間だと覚悟して、視野を広げ、新たな力を蓄えていこうと私は言い聞かせて働いていました。最終的には、どこにいても仕事を自分で創り出していける人が一番強い。そうなったら、社内でも、社会でもやりたいことが実現できるのではないかと思います」。

 

2009年12月全日本選手権(バンクーバーオリンピック日本代表最終選考会)

 

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