宮本恒靖。サッカー日本代表の主将を務め、ワールドカップに2度出場。 クレバーなプレーと統率力が光るディフェンダーとして長く活躍し、海外のクラブにも所属しました。
高校卒業後にプロとして活躍する一方、競技生活を送りながら大学を卒業。現役引退後は、国際サッカー連盟が主宰する修士課程、FIFAマスターを日本の元プロ選手として初めて修了しました。学習意欲が強く、現役時代から英語に堪能な頭脳派として知られており、引退後もJリーグ特任理事やJFA国際委員、解説者や、指導者と幅広い活躍を見せています。
宮本さんのスポーツキャリア
- 小学5年の時にサッカーを始める。
- 中学生時代に年代別の日本代表候補に入り、高校時代は学業との両立を考え、強豪校の部活動ではなく、プロクラブであるガンバ大阪の育成組織に所属した。
- 高校卒業と同時に、ガンバ大阪のトップチーム昇格を果たしてプロ入りしたが、同時に同志社大学にも入学。プレーを続けながら大学を卒業。競技面でも2005年にJリーグ優勝を果たした。
- 日本代表では、ガンバ大阪ユース時代にU-17日本代表に選出されて以降、すべての年代の主将を務めた。2000年のシドニー五輪、2002年、2006年のワールドカップに出場。
- 2006年からの3年間は、オーストリアのザルツブルクでプレー。
- 現役引退後、スイスで国際サッカー連盟(FIFA)と国際スポーツ研究機関(CIES)が主宰する修士課程であるFIFAマスターに入学。日本の元プロ選手として初の卒業生となった。
- 引退後はJFA国際委員、Jリーグ特任理事を務め、現在は古巣のガンバ大阪で育成年代の指導にあたっている。
自分が選んだ道で目標を段階的に達成する
宮本さんは、小学5年生のときにサッカーを始めました。1986年にメキシコで行われたワールドカップで、アルゼンチンのマラドーナ選手の活躍に影響を受けた一人でした。「一気にのめり込みました」という宮本少年は、中学でサッカー部に所属。大阪府や関西地方の選抜チームに招集されるようになりました。当時は、優秀な選手は強豪高校のサッカー部に進むのが一般的でしたが、両親から学業も大切にするようにと言われていたため、地元の進学校である大阪府立生野高校に通いながら、プロクラブであるガンバ大阪のユースチームに所属する道を選びました。
「当時のサッカー雑誌を読んでいて、僕が高校2年になるときにJリーグが開幕することがすでに決まっていることや、Jリーグに所属するチームは育成組織を持たなければいけないことになっていることを知っていました。そして、ガンバの前身である松下電器サッカー部にもユースチームができて、指導者として有名な方が監督として就任されることも聞いていました」と自ら積極的に情報を収集し、学業と両立できる進路を選択しました。学校で勉強をして、クラブに通ってプロの指導者からサッカーを教えてもらう生活では、移動時間を生かして勉強するなど、両立の工夫を図りました。
高校卒業後は、ガンバ大阪のトップチームに昇格。プロ選手としての人生を歩み始める一方、同志社大学に進学して学業も続けました。当然、サッカーと学業の両立は容易ではありませんが、常に強い向上心を持ち、自ら情報を集めて自分自身で進路を選択するという生き方をする宮本さん。
「両親に報告したときは、大学でサッカーをやればいいんじゃないの?と言われましたが、僕はプロとして活躍することを夢見ているし、成長できるこの時期にプロとしてプレーすることに意味があると思っていたので、半分は宣言みたいなようなものでした。自分で決めた方が、(選んだ進路で)がんばらなければいけないという気持ちになります。サッカーが好きでしたが、プロとして活躍できるという確固とした自信があるわけではありませんでした。20歳の頃にはもっと違うことを学びたいという気持ちもあり、サッカー以外の部分をすべて排除するのはもったいない、何かできることをやろうと思っていました。自分がベストだと思って選んだ道なので、サッカーの練習がオフの日にたくさん授業を受けるなど工夫しながらやっていました」と苦労ではなく、充実した日々として当時を記憶されています。サッカーでは、Jリーグ優勝を経験。日本代表としてもワールドカップに2度出場するなどの活躍をし、2007年には活躍の場を欧州へと移しました。宮本さんは、現役時代の挑戦について「中学生の頃から、一つの目標を立て、それを達成するとまた次の新しい目標を立てるという連続でした。ガンバでプロになる、そしてレギュラーになるという目標を達成すると、次は日本代表としてワールドカップに出場することが目標になり、さらに成長するために海外挑戦と段階を踏んでいきました」と振り返り、一つひとつの目標設定と達成の繰り返しを地道に行って来たことを明かしました。
一生のキャリアを考えた時間の使い方
宮本さんは、引退後に国際サッカー連盟が主宰するFIFAマスターという大学院への入学を選びました。国内では例を見ない挑戦でした。プロの第一線で活躍した選手は、引退後すぐに指導者の道を歩むことが多く、宮本さんも国内の最高峰であるS級指導者ライセンスを取得し、監督になるというプランを最初は持っていたそうです。しかし、いきなり指導を始めるのではなく、単身で海外へ渡って知見を広めようと考えました。フリーの身でなければ、海外の大学院に通うことはできません。行けるタイミング、興味があるタイミングを生かしました。大学院では、自分が与えられていたプレー環境が、どのような状況で成り立っているのかを学びました。スポーツの歴史、経営学、組織論、法律などスポーツを多角的に見直す機会を得ました。
現在は、古巣のガンバ大阪で育成年代の指導にあたっています。その中でFIFAマスターの経験を直接的に生かす機会はあまりないと言いますが、宮本さんは「仮に、今の中学生や高校生があることに対して、『将来的に、サッカーのキャリアには必要ないから、それはやらない』と考えるというのは、おかしいと思っています。選手としてだけでなく、人としての部分を考えると、何でもやっておく方が良いと思います」と話すように、幅広く興味を持ちながら人生を歩む指針を持っています。そして、複合的な視野を持つことは、将来に生きる可能性が広がります。たとえば、プロチームの監督になったとき、多くの選手を同時に見て、個々の心情を考えたり、一方でチーム事情も考えなければならないという立場で決断をする場合、あるいはクラブの経営スタッフと話し合う場合などには、FIFAマスターでの経験が生かされるかもしれません。
近年は、現役選手がスクールビジネスを展開するなど、プレー以外の分野での活動も報じられるようになっていますが、どのようなジャンルに転身するのか、どんなチャンスがあるのかは、なかなか分かりません。宮本さんは、アスリートが引退後に歩む第2の人生について、次のように話しました。
「競技を続けているうちは、競技のことだけを考えて没頭すべきだという考え方もありますが、プレーしていない時間をうまく使うことで、競技に限らない一生を通じたキャリアとして、アスリートから次への移行がスムーズになると思います。競技だけに没頭するのではなく、多様性を持って、いろいろな可能性を探る方が良いのではないかと、現役を離れたときに思いました。本当に一生懸命になれるものを見つけたときは、それが自分の進むべき道だとハッキリ言えるかもしれないけど、それが見つからないときには、いろんなことをやっていく方が良いと思います。スポーツ選手の場合、20代後半になって気付くことが多いと思います。人それぞれかもしれませんが、成熟する前には、おそらく判断が難しいのではないかと思います」
自らの可能性を狭めることなく、幅広くチャレンジしていくことが、成功の秘訣なのかもしれません。
選手生活の終わりに保証はない
宮本さんは現在、古巣のガンバ大阪で育成年代の選手の指導にあたっています。プロ選手を育てることが1つの目標ですが、競技に真剣に向き合うことで、人間性も磨いてほしいと願っています。「チームワーク、集中力、フェアプレー。相手をリスペクトすること。目標を設定し、挑戦することなど、スポーツを通じて学んだことで、社会で役立つスキルはたくさんあると思います。アスリート出身の人は、行動に瞬発力や集中力があるという話をよく聞きますし、協調性や負けん気の強さは、日常生活でも生かされるものだと思います」と社会で生きる力を、自身もサッカーを通じて得たと言います。また選手に寄り添うばかりでなく、厳しい環境に挑戦することも促しています。近年の中学生、高校生が「空気を読む」という言葉に象徴されるように、足並みを揃えたがる傾向には異を唱え「選手を1人で厳しい環境に行かせることが有効なのではと考えています。たとえば、選手を1人、1カ月ほど別の環境に連れていきます。すると、選手は自分自身との会話が増えます。自分の立ち位置を客観的に考える。自分の得意な部分、不得意な部分を整理して、自分は何をすべきなのか考える。それが自立につながると思います。日本の場合は、若い子が友だちや周囲の人を見て『アイツがやっているから、自分もやろう』と判断するケースが多いのですが、それをやっている限りは早い成長は望めないのではないかと思います」と、競技を通じて自立心を養う大切さを強調されました。
宮本さんが、プレーの向上だけでなく、競技以外にも生きる力を身につけてほしいと願っているのは、プロの世界の厳しさを知っているからこそです。才能がある選手でも、運や環境に恵まれず活躍の場を得られなかったり、病気やケガで活躍の場を突然失ったりするケースもあります。サッカー選手になって活躍することは、選手にとっても、指導者にとっても夢ですが、より現実的な可能性も考えなくてはいけません。だから、宮本さんは、教え子たちには、サッカー以外のことにも興味を持つ重要性も説いています。
「選手としてのキャリアの終わりを自分で決められる保証はありません。プロで戦力外になるだけでなく、大きなケガをした場合のことも含めて、いつ終わるか分からない不安は、常にあります。だから、その時のための準備も間違いなく必要です。子どもたちが夢を持つことは確かに大事ですが、どれだけの選手がどうなるのかという現実的なキャリアも大人は伝えるべきだと思います。Jリーグの新人選手が10年後にどうなっているのか。たとえば、半数が5、6年で引退しているという平均的な数字を見れば、高校を卒業してすぐにでプロになっても23~24歳までしかプレーできない可能性が半分の人にあると分かります。海外では育成年代でも、1年毎に継続できるかどうかの審査がある厳しい環境がありますから、選手はプロになれない場合のことも考えておかなければいけないと気付きます。日本は、少し見通しが甘い形で選手を育てているかもしれません」
夢を見るばかりでなく、自分自身の可能性を広げておくことで競技を終えた後の生活にも備える。学生時代、現役時代を通じて幅広く挑戦して来たからこそ、競技だけに没頭した場合に見落としがちな視点で指摘をできることもまた、宮本さんが培ってきた力と言えるでしょう。