桐谷 乃宇奈
『選手寿命は想像以上に短い。何をやりたいか』

 

競技との出会い

1967年生まれ。母と兄が自宅近くのフェンシングスクールに入っていた影響から、小学校1年生の時に自身もスクールに入り中学校卒業まで通った。高校でも競技継続を見据えフェンシング部がある高校の部活動に体験入部させてもらったことをきっかけに、その高校から中学校に連絡が入り入学することになった。高校では3年時に日本代表選出され、世界ジュニア選手権に出場した。


これまでのキャリア

●1985年 世界ジュニア選手権出場
●1986年 日本体育大学入学
●1986年 インカレ団体優勝(大学時代は3度優勝)個人2位
●1988年 ソウルオリンピック出場
●1990年 アジア競技大会銀メダル
●1995年 成城学園初等学校教員


■高校、大学、社会人時代

高校での活躍もあり複数の大学から誘いを受けた中、将来は保健体育の教員になる目標を持ち日本体育大学への進学を選択した。大学1年から3年生時にインカレ団体優勝と個人戦2位。4年生時に団体2位の結果を残し、3年生時には日本代表選手としてソウルオリンピックに出場した。在学中に保健体育の教員資格を取得したが、大学の教員資格も取得する為に大学院に進んだ。フェンシングは企業スポーツが無いため卒業後は非常勤の大学講師や専門学校の教員、エアロビクスのインストラクターで生計を立てながらクラブチームに所属し競技を継続していた。競技の遠征費のみクラブチームからのサポートがあったが出費は多かった。


■新しいキャリアステージ

大学院に進んだ後も次のオリンピックを目指していたが絶対的な練習量は少なくなり、筋肉量やアジリティもこれ以上進化はないと感じ始めていた。その頃からトップ選手としてフェンシングを続けることは厳しいと感じ、将来のことを考えて大学院卒業後にエアロビクスインストラクターの資格を取得した。その資格はトレーニングにも役に立ち、ナショナルチームの合宿でもエアロビトレーニングとして取り入れていた。
大学院卒業後の3年間は研究員として働き(無給)、日本体育大学研究員として選手登録して競技を継続していたが、収入面の安定を考え、中学校、高校の保健体育教員になる為の就職活動も始めていた。ちょうどその頃、幼少期に育ててもらったフェンシングスクールの先生から、専科制がある私立の小学校が保健体育の教員を探しているという話を聞いた。中学校、高校の保健体育教員資格でも小学校の教員になれるということで、その小学校に訪問した。体育授業以外にも子供たちと接する機会があり様々な取り組みがある学校で、体育教員のみではなく演劇などの指導も行う役割もあった。子供たちとの接し方が評価され、その小学校の教員として採用された。
教員としての新しいステージがスタートしたこともあり、フェンシング選手としてはワールドカップで良い成績を残すことができなければ日本代表から外れようと考えていた。結果、ワールドカップでは良い成績を残せず、日本代表選手から外れる決断をする。


■競技との両立

日本代表からは外れたが競技は継続していた。大きな怪我をして競技ができない時期もあったが、国民スポーツ大会に出場するなど教員という仕事と両立していた。しかし、大会がある時は学校を休む時もあったり、仕事の為大会を欠場することもあり、競技と仕事の両立が難しかった。当時は、『先生も頑張っているぞ!』と子供たちに見せることも大事だと思っていた。ただ、練習に使える時間が少しずつ短くなり、筋力が落ちてきていることも感じていたので、競技者として更に上を目指すことは断念した。


■教員となって

大学進学時は中学校、高校の保健体育の教員を目指していたが、小学校の教員になれたことを今でもとても嬉しく思っている。「授業の時はとても厳しいが、授業から離れるととても親しみやすい先生」と子供たちは言う。教員同士もあだ名で呼び合い「キリちゃん」と呼ばれ、そんな親しみやすい雰囲気の中でもアスリートとして培ってきた精神力と熱量で子供たちと接して来た。「教員という仕事は日々の子供たちの成長を感じ取れるとてもやりがいのある仕事」と思っている。また、今は日本体育大学のフェンシング部の監督も務め、競技を通して選手そして子供たちと向き合っている。


■現役時代に何をやりたいかを考えることが大事

自身も現役時代はフェンシング一筋だったが、教員になりたいという目標を持てたことがとても良かったと思っている。仕事との両立はとても大変だったが、必死にチャレンジしたことで子供たちに伝えることも沢山作れた。諦めない、考える、やってみる、ということをこれからも子供たちにしっかりと伝えていきたい。

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