2000年シドニーオリンピック銅メダリストが 「水上での命を守るために」取り組むこと

★これまでのキャリア
●1979年 徳島県徳島市に生まれる
●1996年 徳島県立城南高校2年時に50m自由形など3種目でアトランタオリンピック出場
●2000年 中央大学3年時にシドニーオリンピック出場。女子4×100mメドレーリレー銅メダル
●2002年 大学卒業後に就職後、徳島市に戻りスイミングスクールでの指導などにあたる
●2011年 ベーシック・サーフ・ライフセーバー資格を取得
●2012年 「徳島ライフセービングクラブ」を創設
●現在 SUPスクール運営をはじめ、一般社団法人徳島県水泳連盟理事、日本サッカー協会心のプロジェクト「夢先生」講師など「スポーツ系自由人」として活動中
★「自分の意思ではなかった」競泳でつかみとった銅メダル
「小学校入学時は泳げなかったので、そこで両親が泳げるようにと、近くにできたスイミングスクールに放り込まれたんです。自分としては姉がやっているバレーボールをやりたかったし、水泳は好きではありませんでした。しかし辞める選択肢も、辞める勇気もなかったんです」
2000年のオーストラリア・シドニーオリンピックの女子4×100mメドレーリレーで日本チームの銅メダル獲得に貢献した源さんが水泳を続けてきた理由は、世間から見れば意外ともいえるものだった。
そんな自分の意思と反して始めた競技だったにもかかわらず、小中学校では順調に成績が伸び、1994年の日本選手権では50m自由形で当時の日本記録を樹立。徳島県立城南高校でも充実した学生生活の中「ベストタイムは一度も出なかった」ものの、2年生の時にアトランタオリンピックに出場。3年生の時には日本選手権で再び優勝した。小さいころから「オリンピックで金メダルを獲りたい」という目標を掲げていた源さんの元には、当然数多くの大学からオファーが舞い込む。
その中で「私たちと一緒にがんばろう」と声をかけてくれたのは中央大学。
源さんはそこで「はじめて自分の意思で」進学先を決断した。
「小さい頃は周りのサポートを得て、わき目も振らずやってきた。今になってみればそれも大きな経験だったんですが、進学先を決めるにあたって譲れなかったのは『スポーツ以外のことを学び、スポーツ以外の人間関係を築きたい』だったんです」
選択したのは法曹界にも数多くの人材を輩出している法学部。ここで「自分のフィールド以外の皆さんが応援してくれる」人間関係を感じられたこともあり、「やらされる」から「やる」へ取り組みが進化した源さんは、2000年のシドニーオリンピックでは心身ともに充実した状態で迎えることに。
個人種目では50mで8位、100mで7位といずれもファイナリストとなり入賞。そして前回大会予選落ちのリベンジを期して「4人それぞれが最高のパフォーマンスをして絶対にメダルを獲得する」という誓いを立てて迎えた100m×4メドレーリレー決勝で、源さんは最終泳者の重責を担った。
「第1泳者の中村真衣(背泳ぎ)が設定タイムに届かなかったんです。そこで抱擁しながら私にかけた言葉が『ごめん。頑張って』。その後、第3泳者の大西順子さん(バタフライ)がいいタイムを出して3位・4位を競り合う場面で帰ってくるのを見たら、逃げたしたくなって思わず後ろを振り返ったんです。そうしたら中村真衣、第2泳者の田中雅美(平泳ぎ)が祈るような顔をして私を見ている。ここで『やるしかない』となって。すごくアドレナリンが出ていた中で、コーチからずっと言われていた『前半抑えて後半勝負』を実践できたのが、最後の5mでドイツを逆転できたことにつながりました」
夢の金メダルには手が届かずとも「苦しくても苦しくても乗り越える」心を鍛えた結果は、日本女子水泳界で初となるメドレーリレーでの銅メダル獲得となったのである。
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★「自分とは何者なのか」を超え、「水上の命を守る存在になる」仕事へ
ただ、シドニーオリンピック後は「私より頑張っている人たちはいっぱいいる。それに比べたら自分なんか」という自己否定感が増幅。同時に大学進学時に希望していた水泳外の世界で活躍したい想いも重なり、大学卒業後、源さんは一度プールから離れ、一般社会へと踏み出すことになる、
「ただあまりにも水泳しかしていなかったので……。社会人になってみて、オリンピックを目指していた水泳のような明確な目標がなくなって、『自分は何者なのか。何がしたいのか』に20代の間は苦しみました。今振り返れば自分の武器を持てばよかったんですが、考え込みすぎて、そんな行動にも動けなかったんです」
それでも周囲からは「オリンピック銅メダリスト」の肩書が付いて回る。故郷・徳島市に戻り、スイミングスクールのコーチとして再び水泳に携わりながらも「周りの目も怖くなった」模索の時間は30代を迎える手前まで続いた。
そこで源さんは、過去の経歴にとらわれず、まず行動に打って出る。公私関わらず様々なことに関わる中、32歳で次なる人生の選択肢として見つけたのは「ライフセービング」の世界だった。
「徳島県内で開催されているオープンウォーター(屋外)の水泳大会によく参加していたんですが、そこでライフセーバーの方と出会う機会があったんです」
そこで言われたのはこんな言葉だった。「あなたは泳ぐことはできるけど、人を助けることはできないでしょ?」
「そうだなと思いました。でも逆に考えれば『泳ぐことができれば、人を助けることはできるんだ』と。さらに別の現場に行ってもライフセーバーはかっこよく見えた。そこで岡山県内でのライフセービング資格講習会に参加することにしたんです」
ちょうどその時期、源さんがライフワークの1つにしているサッカー界で衝撃的な出来事が起こる。日本代表として2002年W杯でも躍動したDF松田直樹の心筋梗塞による急逝。そこで自分が培ってきた水泳を活かして水上で「命を救う活動」を地元・徳島で行う決意を新たにした。
かくして2012年、源さんは「徳島ライフセービングクラブ」を創設し、県内でのライフセービング活動に従事。次世代にクラブを託した現在は、ボードの上に立ちパドルで漕ぐウォータースポーツであるSUP(スタンドアップパドルボード)のスクール運営活動や、インストラクター養成活動などを通じ、水難事故の予防に寄与している。
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★現役アスリートへのメッセージ「人生は競技者でない時間の方が長い」
現役アスリートへのメッセージを求めると源さんはこう答える。
「はたから見たら『アスリート時代が人生のピークだろ』と言われることは多いし、自分自身もそう感じてしまうこともあると思うんです。でも一部の例外を除けば、人生は競技者でいる時間よりも競技者でない時間の方が長い」
「私も20代の時は苦しみましたが、ずっと『君は本物だし凄いことをやってきたんだよ』と言ってくれていた夫の助けもあって、40代になって自分に自信が持てるようになってきました。今振り返れば当時は変なプライドが自分を邪魔していたんだと思っています」
最後は「競技の種目やレベルとかは関係なく、今頑張れていることが素晴らしい。一番を達成できることは大切なことだけど、思い通りにいかなくても想い描いたことに対してプロセスを踏むこと。そこに価値を見出してほしい。今最大限頑張っていることはセカンドキャリアにも必ず活きてくると思います」と、現役アスリートへのエールを送った源さん。
自身が抱く将来の夢を尋ねると、しばらく考えた後「やりたいことをやれる人生でありたい」と返答した源さんはさらに言葉を紡ぐ。
「時代や年齢によってできることや選択肢は変わってくるとは思うのですが、その時々に自分ができるようにしたいです」
セカンドキャリアというより、日々キャリアを更新していく源さんらしい充実した表情がそこにはあった。その瞳は自らの現役時代よりいっそう輝いている。
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