挑戦は何歳からでも誰でもできて、誰でも夢を見ていい
■これまでのキャリア
●1986年 3月24日に青森県藤崎町で生まれる
●2001年 弘前中央高入学を機にチアリーディングを始め、東北学院大でも継続
●2008年 国内トップレベルのクラブチームであるDEVILSに入団
●2016年 全日本チアリーディング選手権大会で優勝を果たすなどした後に、チアダンスヘ転向
●2017年 Bリーグ サンロッカーガールズのダンサーとして活動開始
●2020年 NBAデトロイト・ピストンズのダンサーオーディションにチーム史上日本人初かつチーム最年長で合格
●2022年 ユタ・ジャズと契約(チーム史上日本人初・最年長合格)
●2023年 NBAオールスターゲームにも出演。シーズンをもって現役を引退
●現在 株式会社エイジェックスポーツマネジメントにてチア事業の責任者として次世代のチアリーダー、ダンサーの価値向上を目指し奮闘中

◆チアとの出会い
「やりきりました。また踊りたいという思いは一切ありません」
2023年、37歳の時に小笠原礼子さんは現役のチアダンス生活を終えた。そこまで言い切れるほど打ち込めたものとの出会いは、高校の進学先を考えていた時だった。
日本を代表するりんごの品種「ふじ」を産んだ青森県の藤崎町で3姉妹の末っ子として育った。小・中学生時代は水泳、書道、演劇、吹奏楽などを習うなど活発に過ごした。
隣町の進学校である青森県立弘前中央高校のパンフレットを見ていると、町の先輩がチアの姿で写っていて「かわいい!これをやりたい」と心を動かされた。そこから「一度も辞めたいと思うことはありませんでした」という天職と出会った。
東北学院大でもチアリーディングを続けて野球部などの応援をするとともに「チアの大会にも出たい」と仲間と話し合い、JCA(日本チアリーディング協会)に加盟もして大会にも出場した。
◆「指導者になるために」
大学卒業後も競技を続けたのは「指導者になるため」からの逆算だった。きっかけは高校の時。東京から来た専門の指導者の方に教えてもらうと「指導ひとつでこんなに変わるんだと思ったんです」というほど見違えるものになったという。
そんな原点もあり「教え子に納得してもらえるような実績が無いとダメだ」と考えた。そこで、住宅資材商社の事務など会社員の仕事を続けながら日本屈指のチアの強豪チームであるデビルスに入団した。アメリカンフットボールの学生援護会や女子バスケットボールのJOMO(現ENEOS)の応援をするとともに、競技大会にも出場し日本一にも輝いた。
◆チアダンスへの転向
30歳の時に、チアリーディングからチアダンスへの転向を決断する。同じ「チア」で混同されやすいが、似て非なるものだ。
チアリーディングはスタント(リフトなど)やタンブリング(宙返りなどのアクロバット)・ジャンプを中心に構成され、協調性・力強さ・スピード・高さが求められるが、チアダンスはダンスがメインでリズムや柔軟性、表現力やフォーメーションの美しさやシンクロが重視される。
「肩や手に人を乗せるチアリーディングを40歳や50歳になってもやるイメージが自分としては湧かなかったこともありますし、大好きな仲間たちも日本一にもなれた。下の代にも引き継ぎができたと思ったので、ダンスをやりたいと考えていたら仲間たちからも“やってみたら”と背中を押してもらいました」
そこで「どうせやるならアメリカを目指そう」という向上心が、小笠原さんらしい。
「自分の頑張りを青森に届けたい。大きな挑戦をして、頑張れば藤崎町からでも世界の舞台に行けるんだということを示したい思いもありました。今でこそSNSが発達していますが、あまり選択肢が多いように見える地域ではなかったので、やれば何歳からでもできるということを証明したかったんです」
まずは「こんなチアがあるんだ。かっこいい!」と感じたBリーグのサンロッカーズ渋谷のチアダンスチームに加入した。1回目のオーディションは落選したが、繋がりのあるスタジオのキッズチアの端や後ろやダンススクールなどで練習をさせてもらうなどして鍛錬を積んだ。その日々も「ダンスはやればやるほど上手くなる。貪欲にやりました」とポジティブに振り返る。
翌年に合格を果たして活動を続ける中で同チームのディレクターを務め、NBAでのダンサー経験のある石井尚子さんから「現地を見て来たら」と勧められ、ダンスキャンプに参加し現在地と夢舞台への距離を測った。
そして訪れたコロナ禍。「この先どうなるかわからない」「挑戦できるうちに挑戦をしよう」と一念発起した。なかなかオーディションは開催されなかったが、正社員として働いていた会社の厚意で得ていた休職の3ヶ月が終わろうとしていたギリギリのタイミングで受けたデトロイト・ピストンズのオーディションに見事合格を果たした。

◆最も辛かった時期
「かなり辛く長い時間でした」
会社を退職し、いざ挑戦。メディアにも複数取り上げられた。しかし、なかなかビザが発給されない。今回のインタビューで唯一と言っていいほどのネガティブな言葉に「受かっているのに何もできない」という苦しさが痛いほど伝わってきた。
だが、沈んでいるばかりではなかった。「現役NBAダンサーでいながら日本にいるという特殊な状況を生かそう」とプラスに捉え、ダンスレッスンを行うなど精力的に動いた。オンラインでピストンズのレッスンにも参加した。
その後は「すべてのタイミングで泣きました」と、ビザが下り、アメリカ行きの飛行機に乗り、再オーディションに挑み合格し、NBAのコートに立ち、試合前のアメリカ国歌を聴き・・・あらゆる場面で万感の思いがこみあげた。
言語、生活、ダンスのレベル、どれも「大変だった」と振り返るが、何もできず何をしていいのかさえわからなかった日々とは違い、挑戦を続ける日々だった。
ピストンズを1年、「他のチームも見てみたい」とユタ・ジャズでも1年間やりきり、冒頭の言葉の通り、完全燃焼で現役を終えた。
「運動神経は本当に無い中で、やりきることができました。その年はユタがNBAオールスターの開催地で踊ることもできました」

◆目指す理想像
セカンドキャリアはチアを極めるきっかけにもなった指導者の枠だけにはとどまらない。株式会社エイジェックスポーツマネジメントにてチア事業の責任者としてスクールでの指導だけでなく、女子バスケットボールの『SMBC TOKYO SOLUA』では衣装を含めてプロデュース。都市対抗野球大会へのチア派遣やJリーグ・ベガルタ仙台のチアリーダーズとスクールのプロデューサーも務める。
「次を見据えてあげられるようなポジションになりたいんです。次世代のチアに新しい機会を与えるとか案件を増やすとかもそうですし、“チアの人も引退後にこうやって食べていけるんだ“と見せていけると思うんです。だから、現役から今のセカンドキャリアは繋がっていますね。挑戦して学んだことを伝え、その経験をした私が“その先に何が待っているか”を見せていきたいです」
最後に小笠原さんの考える「セカンドキャリア」の捉え方を聞いた。
「挑戦は何歳からでも誰でもできて、誰でも夢を見ていいと思います。あとは“この後どうしようか”と不安でいるより、“次”が見えている方が安心して今を頑張れる気がしますし、現役生活を最後まで楽しめると思います」
小笠原さんにとっての「挑戦」は現役生活だけではない。常に前を見つめ挑戦を続ける人生は、これからも続いていく。
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